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2017/12/03

寅さんについて考える―第三回語り場BARにて その1

2017年12月2日、第三回の語り場BARが開催された。今回のテーマは「寅さんについて考える」である。「寅さん」は、山田洋次監督映画シリーズ「男はつらいよ」の主人公「車寅次郎」である。一九六八年からテレビドラマとしてスタートしたが、その後松竹が映画化した。1969年の第一作から1995年の第48作が制作された。全48作の原作・脚本、第三、四作を除く46作の監督を山田洋次が担当した。「山田洋次そのもの」と言って良い作品である。
寅さんは、なぜこれだけ長くかつ多くの人に愛されたのか。山田洋次は「寅さん」の存在についてこう語っている。「『馬鹿まるだし』『いいかげん馬鹿』『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』と、いずれも(山田の作品)、主人公は愚かで、中途半端で、どこか抜けている男でした。(中略)だいたい僕の作品は、いつもそんなふうな社会からはみ出してしまった人間が主人公で、一流大学をいい成績で出たエリートの技術者とか、政治家とかいう人がぼくの映画の主人公になったことは一度もありません。さっぱり興味が持てないんですね、そういう力強い人間とか、権力をもった人間は。」(岩波ブックレット 『寅さんの教育論』)。寅さんとは、愚かで、中途半端で、どこか抜けている男で、社会からはみ出してしまった人間の象徴である。「俺はそんなんじゃない」と胸を張りたいところだが、しかし庶民はどこかで「自分の本姓」を寅に見る。庶民は、どこかで寅さんの中に自分を見ているのだ。今流行りの「ある、ある」ということ。あの失敗する寅さんの姿は、私そのものなのだ。他人のために奔走し、損得省みず突進し、時にはそれで家族を泣かすほど、他人に熱い寅さんの姿に「自らの本来の在り方」を問われるのだ。そして恋。恋多き寅さんである。でも、成立しないし、最後は自信がなくチャンスを逃す。モテモテのダンディ、ハンサムなジェームスボンド(007)にはなれないが、寅さんの切なさはわかるのだ。しかし、「自分はエリート」と思っている人は、寅さんを「なんと愚かしい人物か」と憐れむ。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」(マタイ7章)とイエスは言う。なぜ、他人の「おが屑」が気になるのか。それは、自分の中に同質で、しかも一層大きな問題「丸太」を抱えているからだ。日ごろ気になる自分の問題を他人の中に見出す。裁きたくなるのは、実は自分自身に対する思い。寅さんは、僕の中にある問題を見事に見える化し、しかも生き抜く。決して解決できているわけではない。多くの人を巻き込みながら、おもしろ、おかしく、切なく生きる。そんな「おが屑と丸太のつながり」が私たちと寅さんの中に存在しているように思う。(つづく)

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