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2019/02/03

2/3巻頭言「新年礼拝『いのししに食われる日―神の民は何を祈るか』」その④

 詩編80:17~19 しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の子の上に/おいてください。そうすれば、われらはあなたを/離れ退くことはありません。われらを生かしてください。われらはあなたのみ名を呼びます。万軍の神、主よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
 「そうすれば」が再び登場します。神の手をおいてください、「そうすれば」私たちは、あなたから離れません。われらを生かして下さい、「そうすれば」、私たちは、あなたのみ名を賛美します。私たちをもとに戻してください、「そうすれば」私たちは救われます。しかし、私たちが依然苦難の中に居続けているのは、神様が「そうしないから」だと言うのです。

5、 私たちは、何を学ぶか。
 本当に彼らは苦しかったのだと思います。「そうすれば」と言わざるを得ない気持ちは痛いほどわかります。でも、それでいいでしょうか。私たちは詩編80編から何を学ぶことができるでしょうか。それは、「苦難における祈り」ということだと思います。いのししが食い散らす惨状のただ中で私たちは何を祈るのでしょうか。
 第一に、苦難は人を祈りへと導くということです。苦難の中で人は祈らざるを得ないのです。でも、一方で苦難は、祈りを神への要求、あるいは脅迫に変えてしまうことがあります。繰り返される「そうすれば」という祈りは、まさにその現実を示しています。苦難は、人が神を動かせるのではないかという誘惑にさえなるのです。この「人が神を動かすことができる」という発想は、人が持つべき「あきらめ」を無化します。人間には、限界があります。私たちは、「それは神様がお決めになったこと」だとあきらめざるを得ない時があるのです。信仰生活とは、このような「諦念」を人生に持つことだと言えます。それがない人生は、自己責任のみの世界に生きることとなり、常に自分の努力や信仰が足りないから私は苦しいのだと、自らを責め続けることになります。怪しい宗教は、「あなたの信心が足らない」と脅迫しますが、まともな宗教は、神の絶対性と人間の相対性、あるいは人の弱さを前提としており、神仏にゆだねて生きることを決断することだと思います。つまり、救いは神の決断なのです。私たちは、ただ「お救いください」と祈るしかないのです。条件を付けない。否、条件など付けられないのが神様と人との関係なのです。
 第二に、苦難は人の被害感情だけを増幅されてしまいます。つまり、苦難は悔い改めを曖昧にし、反省しない理由とさえなります。しかし、聖書は「義人はいない」と明言します。反省無き民、悔い改め無き民は滅ぶのです。なぜならば、相手に対する憎悪だけが増幅してしまうからです。神様に祈るというのは、なぜこの悲劇は起こったのかという問いを自らに投げかけることが重要です。無垢な神の民は存在しない。この事実を踏まえて祈るのです。
つづく

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