2025/12/21
12/21巻頭言「追悼 末吉興一元市長」
(「希望とは」は、一回休み)
北九州市長を5期20年間担われた末吉興一さんが亡くなった。1987年初当選。「北九州越冬実行委員会(抱樸の前身、その後『北九州ホームレス支援機構』を経て現在に至る)」が活動を始める一年前である。 最初の十年余り私たちは市と激しく対立していた。路上生活者が増える中、北九州市は公園からの「追い出し」はしても、何らの助けの手も伸べなかった。末吉市長肝いりの「マイリバーマイタウン計画」が発表され、紫川一帯が開発されることが決まった。当時は紫川周辺だけでも100名以上が野宿していたが、この計画が進むにつれ「ホームレス排除」は増々激しくなった。生活保護を申請しようとしても「住所がない。家がない」を理由に断られる。家がないこと自体が「生存権(憲法25条)」以下の状態であるにもかかわらずだ。出口が見いだせず、時に私は50名ほどの野宿当事者と共に「殺人行政出てこい!」とメガホンで叫びながら市庁舎に突入していた。
そんな日々を過ごしながら、私たちは各地のNPOと共に国会への法律の上程運動を続けていた。2002年8月ついに「ホームレス自立支援法」が成立した。この動きにいち早く呼応したのが北九州市であった。意外だった。
法律の成立を受けて北九州市と私たちが「ホームレス自立支援」で協働体制を組むことになった。前代未聞の枠組みが始まろうとしていた。期待と不安が募った。
そんな中、市長との面会が組まれる。「宿敵末吉市長」と直接会う。緊張しつつ庁舎内の応接室に入った。そこに末吉市長が入ってこられた。「奥田さん。末吉です」と笑顔で挨拶。「いろいろご無礼なこともあったと思いますが、これからよろしくお願いいたします」と言う私に「いやああ、やり方はともかく、あなたの言っていること、やっていることは正しい。私は庁舎の上からずっと見ていました」と返された。その後市長は自分の生い立ちを語り出された。貧しかったこと、様々苦労したこと。話は長引き、面会時間はとっくに終わっていたが話しは終わらなかった。次の予定があるのだろう、何度も秘書の方がメモを入れるが市長はそれを払いのけ、語り続ける。そして最後に「だから、路上の方々のしんどさは私にも少し解ります」と仰った。『ならば、もっと早くなんとかしてほしかったなあ』と内心思いつつ、情のある正直な方だと思った。
協働を組むならば無難な相手を選ぶと思う。わざわざ「殺人行政」と名指しした人を選ぶ必要はない。もっと温厚で従順な団体は他にあるだろうに。しかし、末吉市長は私たちをパートナーとして選んだ。不思議な感じがしたが、私はこれが協働の前提だと思えた。お互いの本音は痛いほどわかっている。強味も弱味も。だからよくある「委託=下請け」という関係にはならない。是々非々でやっていける。末吉市長もそう考えておられたと思う。翌2004年9月。公設民営型の「ホームレス自立支援センター北九州」が開所した。住民反対運動が起こったが、それを乗り越え開所した。これまでに2000人近くがこのセンターから自立され、これは全国屈指の成果となった。今では地域から頼りにされる存在となっている。
2007年。「おにぎりたべたい餓死事件」などが起き、末吉さんは市長を降りられた。その後、外務省の参与などを担っておられた。時々、北九州空港でばったりお会いする。「おお、奥田さん、元気か」と声をかけていただく。「ところで奥田さん、もうノーベル賞もらったかね」とこれまた笑顔で聞かれる。「末吉市長が推薦してくれないからまだもらってませんよ」と答える私に「わかった、わかった、今度推薦しておくから」と末吉さん。ユーモアに富んだやり取りが忘れられない。
喧嘩もしたが、よい出会いをさせていただいた。もっともっといろいろなことを教えていただきたかった。長く北九州市のためにお働きいただき心から感謝したい。お疲れ様でした。次は、天国でお会いしましょう。