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2025/06/01

6/1巻頭言「信じ、弱く、愛し、近づく―この時代を生きるための信仰的課題」その②

(これは2025年度計画総会の日に為された宣教を補足修正したものです。)
 たとえそうであっても私たちは、この混沌の時代を生きて行かねばならない。では、この茫漠とした不安の中を生き抜くためには何が必要であろうか。それは「信じること」だと思う。
 ヨハネによる福音書20章19節以下に復活のイエスが弟子と再会する場面がある。数日前にイエスは処刑された。イエスに希望を見いだしていた弟子たちは意気消沈した。しかし、三日後イエスは復活された。復活のイエスは、弟子たちを訪ねられた。
 イエスと弟子たちが再会した日、弟子の一人であったトマスはその場にいなかった。他の弟子からイエスがよみがえったと聞いたトマスは「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言う。その後、トマスの前に復活のイエスが現れた。イエスは、疑うトマスにこのように語りかけられた。
 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 「見たら信じる」とトマスは言う。当然だと思う人は少なくないと思う。見て、理解して、納得したら信じることができる、それが常識と言うものだ。だが、今日の世界はこの「常識」が難しくなっている。なぜならば見ること、聞くことが信じられない、あるいは信じたくないようなことばかりで、それを無理から理解し、承知してしまうと不安が増大することになりかねないからだ。だからイエスは「見たら信じる」「理解できたら信じる」ではダメだという。このような不安の時代においては、見えるものだけに頼ると絶望することになりかねない。現にあの時の弟子たち、とくにトマスにとって目の前の現実(十字架刑)は絶望でしかなかった。自分たちの望みであったイエスが十字架で処刑されたのだから。そんな「理解不能」な現実の中で、なおそれに振り回されることなく、望みを持って生きるために「見ないで信じること」が大切だとイエス自身がいうのだ。
 私たちは今日にこの時代において何を信じるのか。この世界がどんなに絶望的に見えようとも神の国であること。世界は神の思いが凝(こご)って創造されたこと。そして、その神の思いは、私たちに対する愛であり、あらゆる被造物に対する愛であるということ。闇が深くとも光があること。そして、闇は光には決して勝てないということ。そういうことをともかく信じる。意地でも信じ抜くことが、混沌の時代を生きる上で何よりも大切なことだと思う。「見ないで信じる」。それは「盲信」ではない。絶望的な現実を見ないようにすることでもない。目の前の現実にしっかりと目や心を向けて、その痛みの中で信じることに他ならない。私は信じようと思う。

つづく

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