2025/07/20
7/20巻頭言「信じ、弱く、愛し、近づく―この時代を生きるための信仰的課題」最終回
(これは2025年度計画総会の日に為された宣教を補足修正したものです。)
では、この「調和」はどのように成立するのだろうか。「赦し合うこと」だと思う。熱心なユダヤ教徒であったパウロは、当初「多様性」を認めずキリスト者を迫害していた。そんなパウロをキリストは「赦し」、使徒として新しい生き方を与えた。誰も人は弱く、過ちを犯す。自分と違う「異質な他者」に対して「恐怖」や「忌避」の感情を覚えることさえある。自分を正義の側に立たせ、異質な他者を敵とみなす。そんなパウロにキリストみずからが近づき語りかけられた。
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」(使徒行伝9章1~5節)
イエスからパウロに近づく。この場面は、義なる神が罪人という「異質な存在」に自ら近づかれたことを示している。石橋牧師は「『近づこう』とは、神の方から近づいてくださっていることである」と指摘されている。神が罪ある私たちに、限界のある私たちに自ら近づいて下さる。それは「赦し」だと思う。
神にとって私たちは「異質な他者」に他ならない。神は、愛と赦しをもって私たちに近づいてくださり、私たちを包摂してくださった。その事実が「まことの神であり、まことの人であるイエス・キリスト」によって示された。パウロは、そのキリストについてこのように述べている。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ人への手紙2章6~8節)
キリスト自ら私たちに近づいてくださった。この「近づき」には差別はなく、すべての人に対し「公平」に臨まれた。なぜ、それは公平なのか。それはこの「近づき」が愛と赦しに裏付けられているからだ。東八幡キリスト教会は、「クリスチャンだけが天国に行ける」などという差別をしないのは、この公平を体験していることによる。
そして、このイエス・キリストの「近づき」に与(あずか)った私たちは、当然の応答として「異質な他者」に近づくことへと導かれる。時に齟齬も起き、対立も生じる。だからこそ、私たちは「赦された罪人同士である」という認識に立ち全ての人と神の家族として「赦し合い」、そして「近づき続ける」。
東八幡キリスト教会は、2025年11月に創立70年を迎える。私は、この機会にこの教会が今後も信じること、弱さを大切にすること、そして愛と赦しを基とすること、そして、近づくことに熱心で在り続けて欲しいと祈っている。