2025/08/10
8/10巻頭言「教団出版局 『平和を継ぐ者に』―はじめに」 最終回
(実はこの夏二冊の新刊が出る。「希望のまちのつくり方」(西日本新聞社)に続き、日本キリスト教団出版局から発行される「平和を継ぐ者に―戦争証言・使命・祈り」の編集を依頼された。これは⽉刊誌『信徒の友』に掲載された戦争体験者の証⾔と戦後の平和活動の歩みから、戦後80年の今、平和を受け継ぐための使命を祈りつつ、あらためて考えるために九月に刊行される。私自身は『はじめに』を執筆した。以下は、その原稿である。)
「解かる」とは何か。「解かろうとする」とは何か。究極的には同じ体験をするしかないのだと思う。つまり、戦争の痛みを知るには、もう一度戦争をするしかない。しかし、それはそもそも矛盾したことである。では、私たちには何をすべきなのか。全身全霊を傾けて証言から導き出される風景、思いを想像すること。さらに、その現場に赴くこと。そして悔い改めるということだ。ご存知の通り「悔い改め(メタノイア)」は単なる「反省」ではない。「方向転換」、すなわち「行動変容」を意味する。それが無いならば私たちは出会っていないし、学んでもいないことになる。
イエスと出会った東方の博士たちはその後「別の道を通って自分の国へ帰って行った」(マタイによる福音書2章12節)という。イエスと出会うということはそういうことだ。証言されている苦難の現場には十字架のイエスがおられた。インマヌエルとはそういうことだ。本書の証言を読み、解ろうともがくなら、私たちはそこでイエスと出会うことになる。結果、読者は「別の道」を歩み出す。それが本書の目的だと思う。
今からあなたは困難な道を歩み始める。イエスは言う。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に至る門は狭く、その道も狭い。そして、それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音書7章13〜14節)。さあ、私たちはこのイエスの言葉を頼りに困難な旅に出よう。安易に「解る」ことは諦めよう。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」(ヨハネによる福音書9章41節)。本書を「読解」することは闇の中に光を見出す作業となる。
戦後80年の夏。本書と共に今の時代と未来の世界をあなたと共に考えたいと思う。 おわり