2025/09/28
9/28巻頭言「泣ける教会―創立七〇年宣教」その②
さらに人が人として生きるということはどういうことか。アンパンマンで有名なやなせたかしは、1961年に「手のひらを太陽に」を作詞している。今も多くの人が知っている歌である。
「ぼくらはみんな生きている。生きているから歌うんだ。ぼくらはみんな生きている。生きているから悲しいんだ。手のひらを太陽にすかしてみれば、まっかに流れるぼくの血潮。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな、生きているんだ、友だちなんだ」。(一番歌詞)
改めてこの歌詞に触れ驚いた。やなせは「生きている」とはどういうことかを書いている。一番の最初に出て来るのは「生きているから歌うんだ」である。そうだと思う。生きるとは「歌える」ということだし、そのような快活な状態こそが「生きている」と言えるのだと思う。
しかし、やなせは次に「生きているから悲しいんだ」という。作曲を担当したのはいずみたくで、マーチ風の明るく元気がいい曲調となっている。だから「歌うんだ」が出だしであることに違和感はない。あの曲調だと次は「おどるんだ」とか、「笑うんだ」が来てもおかしくない。確かに「笑う」は二番の歌詞に、「おどる」は三番の歌詞に登場する。だが、やなせは、「歌う」の次に「悲しむ」を上げている。この感覚は凄いと思う。戦争の体験がそのような歌詞を生んだのか。その思いは解らないが、やなせのことばに私はたじろぐ。生きるとは、キチンと悲しむことが出来ることなのだ。
他人の痛みを自分の痛みとできるのが人間であり、キチンと悲しむことが出来るのが生きることである、とするならば今の私はどうだろうか。私は人間か、私は生きているか。私は問われていると思う。どれだけ子どもたちが殺されたら私は痛みを感じるのか。どれだけ子どもを殺された母親が叫べば私は悲しむのか。私は、いつになったら泣けるのか。私は、本当に人として生きているのだろうか。
ならば多少無理をしてでも悲しむしかない。神は「もらい泣き」という賜物を私たちに与えて下さった。その恵みを多少無理をしてでも行使したい。分断が進む世界において、人間であること、本当に生きることを取り戻すために、私たちには、今、それが必要なのだ。
つづく