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2025/10/05

10/5巻頭言「泣ける教会―創立七〇年宣教」最終回

 東八幡キリスト教会は創立70年を迎えた。この時に私たちは、どのような教会であるべきなのかを考えなければならない。私は「泣ける教会」でありたいと思う。今日キリスト教の教会が、そして東八幡キリスト教会が目指すべきは「教勢拡張」などではない。「楽しい」だけでもいけない。世界に「共痛」と「共に流す涙」を取り戻す。それがキリスト教会の使命であり「伝道活動」だと思う。
 パウロは言う。「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(コリント人への第一の手紙12章抜粋)。これは、しばしば「教会論」、つまりパウロが描く「教会形成論」として引用される。だが、このイメージを教会内に矮小化する必要はない。私たちはこれを聖書が示す「世界の在り方」を指し示すものとして受け止めたい。
 世界はキリストのからだであり、故につながっている。だから互にいたわり合うことが出来る。一人が痛めばからだ全体が痛みを感じる。神は、世界をそのようにお創りになられた。ここに希望がある。だから泣ける。そして私たちは人として生きることが出来るのだ。私はそれを信じる。
 東八幡キリスト教会創立70年のテーマ「泣ける、笑える、生きる」である。これは、現在の分断の世界に対するカウンターメッセージであり希望である。私は、自らを吟味したい。私は他者の痛みを痛んでいるか。私はキチンと泣いているか。あなたは他者の痛みを痛んでいるか。あなたはキチンと泣けているか。この問いに応答することが、信仰生活そのものであり、教会形成となっていく。東八幡キリスト教会は、そのように今後も創られていく。時代は、あまり良い方向に向いていないように思える。多くの人が希望を持てず、自分の事しか考えられない状況に陥っている。格差と貧困は長年放置され「自分は見捨てられた」と考える人々が「ファースト」に一縷の望みを託している。しかし、それがさらなる分断を生み出すのもまた事実である。貧しい者が富むことを求めるのはいわば当然である。
 しかし次の聖書の言葉もまた事実なのである。「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである」(テモテ第一の手紙6章9節)
 さて、私たちは、どう生きるべきなのか。聖書の示す生き様とはなになのか。パウロは、次のように勧告している。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ人への手紙12章15節)。 東八幡キリスト教会は、この聖書の言葉に従い歩んで行きたい。その営みの中で次の十年を展望したい。
長き年月の中で多くの先達、また人々がこの教会を覚えて祈ってくださった。心より感謝したい。何よりも不完全な者たちが70年にわたり礼拝を守り続けられたことは神の恩寵でしかない。このことを心に刻みたい。次の歩みに向けて今日より私たちは歩み始める。  祈る。

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