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2025/12/14

12/14巻頭言「希望とは何か⑩―不可解性への耐性 最終回」

(前回書いた部分を構成し直しましたので一部重複があります。すみません)
 だが今日、私たちは「不可解性」に耐えられなくなりつつある。私たちは、わかり易いことが好きなのだ。時代の流れが速い。立ち止まり時間をかけて考える暇がない。コンピューターやインターネット、さらに生成AIの登場は、「調べればすぐに答えが与えられる便利な日常」を保障した。ネット検索は気が利いているを通り過ぎて「バカ丁寧過ぎ」る。一度検索するとアレゴリズムが機能して次々に私が興味や関心がありそうな情報や商品が現れる。まるで誰かに心の中を「のぞき見」されているような錯覚さえ起こす。さまざまな「陰謀論」やポピュリズムの台頭は、「排外主義」とセットで社会を寝食している。自分の所在や承認に不安を抱える人にとって「あなたがファースト」は、明確でわかり易く安心できる。結果、世界は敵と味方に分断される。実にわかり易い。
 学校教育では「問いよりも答え」が重んじられた。「必ず正解がある」。それが学校教育の前提だった。だから毎度のテストで「ただ一つの正解」を書くことが求められ、的確に「一つの正解」を書くことができた人が「優秀」とされた。
 だが一旦社会に出ると世界はそう単純ではなかった。何が「正解」か、簡単にはわからない。そんな日々の現実をさまよい歩くように生きる。「解ったら生きていける」と考えていては生きていけない。「解らなくてもともかく生きてみる」ぐらいでいい。不可解を生きる。それが生きることだからだ。
多くの人が不可解性に耐えきれずに「解り易さ」を求めている。そこに付け込み「明確」で「解り易い答え」が飛び交う。その最たるものが戦争である。味方か敵か。善か悪か。戦争はわかり易い。だがそんな単純なはずはない。どちらかが絶対に間違っていることも、どちらかが絶対に正しいこともない。平和は、「問い」続けることから始まる。
 「答え」は明確ではない。「目的」は問い続けるしかない。そして「希望」は不可解である。大切なことは常に隠されている。この不可解性に耐えうるか。不可解性への体制。これこそが希望を捜す人に求められる力なのかもしれない。
 不可解性への体制。それは「信じること―信仰」に近い。「良く解らないがある」と信じる。「隠されている」とは、「よくわからないが実は存在している」ということを示している。だから捜す。鼻から「無い」と思っている人は捜さない。私たちは、不可解という深淵に向き合い、それでも捜し続ける。不可解性に耐えながら私たちは捜し続ける。それこそが希望のとって不可欠な態度なのだ。
(不可解性への耐性 終了)
 つづく

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