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2017/01/03

どうでもいい『いのち』などない

東八幡キリスト教会は毎年教会標語を掲げる。私が赴任した一九九〇年は「共に生きる開かれた教会」だった。まあ、そういうことでしょう。翌年が「誰が隣り人となるか―いのちへ傾く教会」。なんだ、二七年前から「傾いて」いたのか。さらに翌年「主、我を愛す―がんこで自由な教会」。「がんこ」ときたか・・・。やっぱだいぶ変わっとるなあ、この教会は。そして、一九九六年以後「腰に手ぬぐい、まちの教会、みんな家族」がメインとなり、副題が変わっていくようになる。この翌年以後、ホームレスが急増、時代は新自由主義へと向かっていった。「腰に手ぬぐい」は教会が何を目指すのかを示した。イエスが腰に手ぬぐいをして弟子の足を洗われた。だから教会(キリスト者)は、「腰に手ぬぐいをしてイエスのように仕える人になる」ということはもちろんだが、それ以前にイエスは汚いことを承知で私たちの足を洗ってくださる、「だから、いい格好しないで正直に自分の弱さをイエスの前に出せる教会になろう」ということを確認したのだった。なかなか素敵な標語だ。

そして今年、「神様は、どうでもいい『いのち』をお創りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するため、ひとりを大切にする教会になる」が登場した。これは良かった。第一にわかりやすい。キリスト教に縁のない方もなんとなくわかる。何よりもこの時代にあって教会とは何と闘うのかを明確に示している。

 「どうでもいい」。現代社会は人をそこまで追い詰める。それは安心できる他者との関係が切れることによって生じるとフランスの社会学者E・デュルケームは、著書「自殺論」の中で語っている。彼は、内面の秩序が立て直し不可能に崩壊していることを「アノミー状態」と呼ぶ。デュルケームは、自殺を社会学的要因として「自己本位的自殺」、「集団本位的自殺」、「宿命的自殺」、「アノミー的自殺」の四つに分類したのだが、「アノミー的自殺」とは「自棄」を指す。つまり、「もうこれ以上頑張れない」ということではない。「もうだめだ、頑張れない」は、前提に「なんとかしたい」という思いがある。しかしアノミー状態は、「どうでもいい」「面倒くさい」という思いである。この間、まさにそのようにつぶやく青年と会ってきた。それぞれこれまでの生育において自尊感情を醸成してくれるような人との出会いに恵まれず生きてきた。そして、当然のように「どうでもいい」と、確信したように言う。

東八幡キリスト教会は、このアノミーとの闘いを宣言した。それが「神様は、どうでもいい『いのち』をお創りになるほどお暇ではありません」である。しかしこのアノミー状態は、どのように解消できるのか。「どうでもいい存在ではない」ことを私たちは、どのように証明し相手に伝え得るか。出会いを丁寧に積み重ねることは重要だ。細い線を束ねていく地道な作業。だが、それを「証明すること」は、人には困難なことも多い。そこで教会は宣言する。「神様はお暇ではない。だからどうでもいいのちは存在しない」。今日の社会においては教会の伝道の使命は、この言葉を確信をもって多くの人に伝えることであり、それを信じて行動し出会うことにある。新しい年、一層このことばを証明できる教会になりたい。

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