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2020/02/09
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11/19巻頭言「社会変革」女たちが行っている間に 番人のうちある人々が都に帰って、いっさいの
出来事を祭司長たちに話した。 祭司長たちは長老たちと集まって
た、「『弟子たちが夜中に来て、 我々の寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
万一このことが総督の耳に入っても、 我々が総督に説いて、あなた方に迷惑が
かからないようにしよう。」 そこで彼らは金を受け取って、教えられた
の間にひろまっている。 さて、11人の弟子たちはガリラヤに行って
イエスが彼らに行くように命じられた山に 登った。そして、イエスにあって拝した。しかし
「わたしは天においても地においても、いっさいの権威 を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、
すべての国民を弟子として 父と子と聖霊との名によって、彼らに
バプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守る
ように教えよ。 見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと
牧師の祈祷の後、全員で御言葉の前に静まる 時を持ちます。しばらくの間
教会では2週間前にイースターを迎えて 教会の暦で言うと今は復活節という時を
キリストの復活を喜ぶとともに今年はお 一人の方の信仰告白とバプテスマ式が行わ
あの巨体であります。 水の中だと大丈夫なのかなと、たかをくくっ
てはいたのですけれども、いざ 倒そうとすると、このままでは支えきれそう
にないと思って、二度ほど足をこう踏みしめ 直したわけですが、
そのまま倒すとですね、この下っていく階段 があるので、そこに頭をですね、ぶつけさせて
しまったらいけないと思って、慎重に倒し ますと今度はですね、水に浮いてしまって
沈めたらですね、長いと後から文句を言われ た次第であります。
その時は必死だったので全然気づいており ませんでしたけれども、水から、こうザバーッと
起こした時にですね、自然と大きな拍手が おこっておりました。
言うとなんか厳粛な雰囲気でですね 執り行われるそんなものだというイメージ
がありますし、この教会も基本的にはその ようにして行っているつもりなのです
の教会らしいなと思わされました。 改めて新谷さんのバプテスマ式が持てた
バプテスマはキリスト者として 生きることを決意し、皆の前でそれを表明し
た人が受ける儀式のことであります。 特に私たちの教会バプテスト教会がやって
起こされることで新しい自分に自分として 生き始める。そのようなことを
象徴しているわけであります。 バプテスマ式は、昔はイースターにまとめて
行われていたそうでありますけれどもその 理由はよくわかります。
記念する日として主日と呼んでこのように 礼拝を守っているわけですから
イースターでない主日にバプテスマを受け たからといってその意味合いが薄れるよう
なことはありませんので、 イースターでなかった人もどうぞご安心
弟子たちの前に現れたということを 信じなさいそう言われても無理だという方
しかしそれは現代に限ったことではなく 最初のイースターの朝からそうだったと
いうことを、福音書は伝えているのです。 先ほど読んでいただいた聖書の箇所は
マタイ福音書の最終章の一番最後の部分 福音書の終わりの部分の
父と子と聖霊の名によって彼らに バプテスマを施し、2週間前の
新谷さんにバプテスマを授けましたけれども 父と子と聖霊の名によって彼らに
バプテスマを施し、あなた方に命じておいた いっさいのことを守るように教えよという
いわゆる大宣教命令と呼ばれる言葉を 復活のイエスが弟子たちに語ったとされる
しかし今日はその部分だけではなく直前の 箇所から読んでいただきました。
今日はむしろこの直前の箇所を中心にお 話ししたいと思いますけれども、あまり
礼拝の中で取り上げられることのない箇所 ですので福音書にこんなことも書かれてい
4つの福音書の中でもマタイ福音書にしか 記されていないエピソードでもあります。
この記事の前提となる記事がこの少し前 27章の最後に出てきます。
自分はよみがえる』と言ったのを、思い出し ました。ですから、三日目まで
墓の番をするように、さしずをしてください。 そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、
『イエスは死人の中から、よみがえった』と、 民衆に言いふらすかもしれません。
そうなると、みんなが前よりも、もっとひどく だまされることになりましょう」
ピラトは彼らに言った。 番人がいるから、行ってできる限り、番をさ
準備の日の翌日と書いてありますけれども 準備の日というのは、
安息日の前日のことでありまして 安息日は仕事をせずに安息しなければなら
そもそもユダヤ人たちはこの安息日というのが とても大事な日でありましたので
その願いが聞き入れられてイエスの両側で 十字架につけられていた
犯罪者たちは足を折られてそれで絶命を するわけでありますけれども
イエスがすでに死んでいたので足を折ら れることはなかったそのように
それを見たものが証しをした。そしてその 証しは真実である。そのようなことも
日が沈んでしまうと 翌日、ユダヤ教のユダヤ人たちの1日の考え
そうすると金曜日の翌日、土曜日がですね ユダヤ人にとっては安息日でありますので
夕方のうちに大急ぎでイエスの遺体を墓に 埋葬したというふうに言われています。
その様子を見守っていたイエスの女弟子 たちは、男弟子たちはみんな逃げ出してどこ
に行ったかわからなかったわけですが、女の 弟子たちは家に帰って
ます。失礼を承知でこんな言い方をさせて いただきますが、当時
低く見られていた女性たちでさえ 掟に従って安息日を休んだということが
掟を正しく守るように人々に指導していた はずの祭司長、パリサイ人たちが
当然イエスのことでありますけれども、 あの偽り者がまだ生きていた時、三日の後に
自分はよみがえると言ったのを思い出し ました。ですから三日目まで
弟子たちが来て彼を盗み出し、イエスは死人 の中からよみがえったと民衆に言いふらす
これは以前の宣教でも言ったことがあり ますけれども三日の後によみがえるという
復活予告は受難予告とともに 生前のイエスが繰り返し少なくとも三回は
弟子たちに語っていたことが福音書に伝え られております。けれども当の弟子たちは
そんなことをすっかりなかったかのように イエスが捉えられると、みんなイエスを見捨
女たちからイエスの墓が空だった、イエスは 復活されたと聞かされても
イエスが死んだ直後に、イエスのこの 復活予告の言葉を思い出したというのです
万に一つでも何かあれば、人々がますます騙さ れることになりかねない。だからイエスの
言った三日の後までは見張りを立てて何事 も起こらないことを確認させよう
ところで、なぜ彼らはこれをわざわざピラト に言いに来たのでしょうか。
墓を見張らせるだけでありましたら自分 たちのしもべに命じて見張らせることも
ピラトを巻き込むことによって ローマ帝国のお墨付きを得ようとしたと
墓の番をするように指図をしてください。 そのような彼らの申し出にピラトは
はずだ行ってしっかりと見張らせるがよい。 と訳されておりまして
自分たちユダヤの兵を使うように言われた。 というふうになっております。
番兵を出してやるから言って思う通りに 見張らせるがよいという訳になっており
訳としてはどちらの可能性もあるわけで ありますけれども、新共同訳だとわざわざ
自分のところに言いに来なくても自分たち で勝手にやったらいいだろう
協力を得られたということになります。 一体どちらなんでしょうか。
次の説も二通りの訳があります。 口語訳ではそこで彼らは行って石に封印を
墓を見張ったとなっているのです。 つまり祭司長、パリサイ人たち自身が
ユダヤ兵だけで番をしたのではなく ローマ兵を番人に出してもらっていたのだ
自分たちの側からも見張りを出して一緒に 見張らせたということはあり得るだろうと
犯罪者の墓番をずっとやっていました なんてことは、なかなか考えられません
ローマ総督に番兵を出してもらえたから 自分たちと自分たちのたてた見張りと一緒
祭司長たちは長老たちと協議して 兵卒たちにたくさんの金を渡して
ば、つまりユダヤ兵ばかりであったとしたら、 いわば見張りに失敗してしまった番人に
逆に一緒に番をしていたはずのユダヤ側の 番人たちは正直に報告するのが恐ろしい
ものだから都に帰って来れなかったの だろうと思います。わざわざ
番人のうちのある人々が帰ってきたという 書き方がされているのもそのように
では、彼らが目撃したこととはどんなこと だったのでしょうか。
すると、大きな地震が起こっ た。それは主の使いが天から下って、そこにき
た。この御使いは女たちに向かっていった、 「恐れることはない、あなたがたが十字架にお
かかりになったイエスを捜して いることは、私には分かっているが、もうここ
よみがえられたのである。 さあ、イエスが納められていた場所をごらん
こう伝えなさい。 『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、
あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこ でお会いできるであろう』
墓の番人たちが目撃したのは、女たちがやっ てきた時に大きな地震が起こり、主の使いが
その天使がイエスはよみがえられたと語っ たのを聞いた女たちが大喜びで墓を
天使が言う通り、空になっているのを確認し たことだろうと思います。
死体が墓の中で起き上がる瞬間を目にした わけでもありません。
死人のようになってしまうほど 震え上がって震え上がっていたわけであり
同じく恐れに震えていた女たちは、この 突然現れた得体の知れない人物の言葉を
聞くと大喜びで出て行ってしまいました。 番をしていたローマ兵たちは
報告の中にあったことでしょう。 彼女らも最初は恐れていたけれど天使
らしきものの言葉を聞くと大喜びで 去っていったというのです。
そうであれば少なくとも女たちは天使の 言葉を信じてイエスが復活したと考えたの
女の戯言など誰も相手にしないかもしれ ないが、イエスの弟子連中はそれを利用して
大丈夫、あなた方に落ち度がなかったことは よくわかっている。
ユダヤ兵の見張りの番の時に 盗まれたとか言ってピラト総督にはうまく
祭司長たちが考えた偽証とは 弟子たちが夜中にやってきて番兵たちが寝
寝ていたのならどうして 弟子たちが盗んだとわかるのでしょうか。
番兵失格であるような失態をなぜ番兵たち 自身が言って回っているのでしょうか。
どこにも信じられる要素はなさそうである のに、この話が長くユダヤ人たちの間では
ます。この話の方がまだイエスが復活したと 信じるよりも受け入れやすかったという
神の子であるイエスは様々な場面で 奇跡それをヨハネ福音書はしるしと呼ん
だりしているわけですけれども、例えば水を ぶどう酒に変えたりだとか、五つのパンと二
弟子に対してこのように言っています。 あなたは私を見たので信じたのか
今日、私たちが読んでおりますマタイ福音書 は見える形で復活の出来事を描いており
番人たちがイエスを信じたかというと そんなことも伝えられてはいないのであり
決定的なのは今日の箇所の後半 11人の弟子たち、ユダが裏切って
去っていったわけですから12弟子のうち の一人が抜けて11人ということに
なっているわけですが 11人の弟子たちが女たちの報告を聞いて
です。生前のイエスと一番近くで行動を共にしていた11弟子の中でさえ
復活のイエスと直接出会っても疑うものがいたというのであります。
そうであれば、私たちが信じるのはなおさら難しいことに違いありません。
信じて生きることが私たちが復活を信じるということなのだと思うの
です。ですから先々週のイースター礼拝で新谷さんがそのような生き方に歩み出した