2025/07/13
7/13巻頭言「信じ、弱く、愛し、近づく―この時代を生きるための信仰的課題」その⑧
(これは2025年度計画総会の日に為された宣教を補足修正したものです。)
「生物多様性」は、自然界の前提条件である。すべての生物は独立して存在するのではなく、互いに補完し合い影響を与え合っている。ある種族が絶滅すると生態系全体に影響が出、自然界の全体のバランスが崩れ、環境破壊をも誘発する。つまり、世界ということにおいては、不要な存在や意味のない存在などないということだ。その観点でも「自分だけ」という発想は大変危険であることが明らかである。パウロは、このように語っている。コリント人への第一の手紙12章12〜27節「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」
これは教会という共同体についての言及であるが、あらゆる共同体、国家、世界そのものについても大切な視点を示している。私たちの「からだ」は「異質な部分」が調和を保ち「一つのからだ」を形成している。それぞれに意味や役割があるので、違うからと言って「お前はいらない」とは言えない。この多様性こそが「からだ」を成り立たせる重要な要因だと言える。この「からだ」に例えられる「調和」は、教会形成においてのみならず、社会や世界においても同様に不可欠な事柄だと言える。それを蔑ろにすると世界が壊れることになる。
つづく