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2019/01/20

1/20巻頭言「新年礼拝宣教『いのししに食われる日 ―神の民は何を祈るか』」その②

 「80:3 神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。」人々の願いは、「私達を元に戻してください」であり、「あの栄光の時代に戻りたい」でありました。「そうすれば私たちは救われます。幸せになれる」と彼らは考えていたのです。苦難の中で必死に叫びを上げる人々の姿が浮かびます。「あの日に帰りたい」、でも、そうはいかない。それどころか、その後イスラエルは、紀元前500年代には、バビロニアによる捕囚も経験します。
 しかし、少々気になることもあります。3節にある「そうすれば救われます」という言葉です。人々は、必死に神に祈るのですが、しかし、あまりにも過酷な苦難は、祈りを「要求」に変えてしまうということです。「そうすれば」の一言は、まるで人間が神に要求を突きつけているような一言に思えます。つまり、「あなたがちゃんとしないから私たちは、苦しいのです」と言っているようなものです。深い苦難に置かれた人は、ややもすると「神を脅迫」さえするのです。「神様、いつまでもボーとしてんじゃねえよ」と言いたくなるのが、苦難に置かれた人間の現実でもあります。
 でも、それはダメです。なぜならば、「そうすれば救われる」は本来神様の言葉だからです。人間が神様に成り代わり、語りだす。それは、人間にとって最も不幸なことだと思います。「信じなさい、そうすれば救われる」
 「委ねなさい、そうすれば救われる」、「イエスに従いなさい、そうすれば救われる」。これは、聖書の言葉であって、人間の言葉ではありません。でも、あまりの苦難の中で、人はいつか神のように「そうすれば」を語りだし、神様に対して「命令」し、結果、もっと不幸なことになっていくのです。
 神様に対して「そうすれば救われる」と迫るということは、人が神を動かそうとしているように見えます。つまり、人間が神を動かし、自分を救うという営みです。しかし、どれだけやっても、神様は動いてくれない、「沈黙されている」としか思えないこともあります。そうなると「自分の信仰が足りない」「祈りが足りない」「献げ物が足りない」ということで自らを責めることになります。このような「神様が動いてくれないのはあなたの信仰が足りないからだ」という考え方は、この社会が言ってきたあの「自己責任論」と同じです。何よりも「自分の努力で何とかなる」のなら神様は不要です。これは神不在の信仰と言っていいでしょう。そのような信仰の結果、絶望する人間は、神に対して絶望しているのではなく、神を動かすことができなかった自分に絶望することになります。
3、神様が怒る理由
「80:4 万軍の神、主よ、いつまで、その民の祈にむかって/お怒りになるのですか。」そんな中、自分たちがこんな目に合うのは、どうも、神様が何かを怒っておられるからだろうと人は考えます。「神様、いつまで怒っておられるのですか」と神に問うわけです。しかし、不思議なことに「なぜ神が怒っておられるのか」について自らを問うということはしていません。「大変だ!助けて!」と言っている割には、何が原因で神が怒っているのかは考えない。
つづく

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