2025/06/22
6/22巻頭言「信じ、弱く、愛し、近づく―この時代を生きるための信仰的課題」その⑤
【今週のことば】
(これは2025年度計画総会の日に為された宣教を補足修正したものです)
こんな時代に聖書は私たちに何を語り、何を考えさせ、何を選択させようとしているのか。それは「愛」である。イエス・キリストにおいて示された愛は「ディール(取引)」ではない。イエスを殺した人々でさえその十字架の姿を見てこのように言っている。
「祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。』」(マルコによる福音書15章31節)
これはあざけりの言葉である。しかし、それでも彼らはこのことは認めざるを得なかった。「他人を救ったが自分は救わない」。イエスは「自分だけ」ではなかったのだ。
この姿を見た百卒長(イエスを殺したローマの兵卒長)は、次のように告白した。
「イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』」。(マルコによる福音書15章39節)
この百卒長は、十字架のイエスに神を見る。それは神、すなわち「愛」を見たのである。なぜならば、神は愛そのものであるからだ。このようにある。
「神は愛である」(ヨハネ第一の手紙4章8節)
「自分のことは考えず、他人を救う」。それは愛であって「ディール(取引)」の存在余地はない。圧倒的で一方的な愛があるだけだ。キリスト教会は、愛、つまり無償の愛によって救われ希望を得た人々の群れである。もし救済の条件として神が何かを要求したとしたら私たちの救いは成立していなかった。それはただただ恩寵と呼ぶしかない出来事なのだ。
トランプ大統領の岩盤支持層は「バイブルベルト」と呼ばれているアメリカ南部のキリスト教保守層だと言われている。彼らに限らず多くのキリスト教会では「洗礼を受けてキリスト者になった人だけが天国に行ける」と教えてきた。これは「ディール(取引)」である。本当にイエス・キリストは、そんなことをあの十字架において示されたのだろうか。
イエスは、このように述べている。
「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイによる福音書5章45節)
ここにも「ディール(取引)」は微塵もない。良い者だけに与えるのなら、それは条件のある「ディール(取引)」である。しかし、イエスが語る神(の愛)は、まことにおおらかであり普遍的な方なのだ。「ディール(取引)」のためにあれこれ心配する必要はない。すべての人に太陽はのぼり、雨が注がれる。
つづく