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2017/08/20

出会う旅は危険がいっぱい

先週十一名の中高生がやってきた。「隣人に出会う旅」の一行だ。四泊五日でホームレス支援の現場に学ぶ。
「隣人に出会う旅」は危険な旅だ。アフリカのジャングルクルーズなんか目じゃない。段違いに危険。それは「出会う旅」だから。「出会う」とは「出て行って会う」ことを意味する。どこから出ていくのか。「自分」に他ならない。自分(の場所)に留まっていては「出会えない」。自分(の居場所)に留まる方が安心だ。自分の思い通りになる方がストレスもない。しかし「出会う旅」はそれを許さない。
旅人は、住み慣れた地を出て他者と会う。「他者」とは自分ではない存在。偽物の出会いは自己を肥大させるが、本物の出会いは変化を起こし、時には「自分の分」を減らす。出会った他者が自分の中に住み始めるのだ。「自分の事だけで精一杯」と思っているが、出会うと容赦なく他人が自分の中に住み始める。結果、時に自分の事のように他人のことが心配になる。実に煩わしいのだ。旅にはそんなリスクが伴う。だから現代人の多くは旅に出ず無縁化していった。
作家の灰谷健次郎は言う。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや。人間が動物と違うところは、他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分の他にどれだけ自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか」(小説「太陽の子」)。人間は動物と違う。他人の痛みを自分の痛みのように感じることができる。それは人間最大の能力。これが「人の本質」であるのなら、「隣人に出会う旅」は人が人であり続けるための旅だと言える。この能力を劣化させると人は人でなくなる。少々つらくても、人は旅に出なければならない。野宿のAさんと出会う。出会うとそのままの自分では居られない。雨が降る。自分の傘の心配で終わっていた自分はもういない。「Aさんどうしているかな」と考える。おいしいものを食べる。「ああ今日はうまかった」と単純に喜ぶ自分はいない。「Aさん食べてるかな。自分だけおいしいもの食べてAさんに申し訳ない」などと考える。実にうっとうしい。そんな風に他人の分まで苦しまねばならなくなる故、出会いは「危険」なのだ。それでも僕らは出会い続ける。人であり続けるために。
出会いこそ「救い」の本質だと聖書は語る。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。(中略)十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ二章)。神ご自身が、人と「出会う」ため安住の地を離れ地に下り、神であり続けることに固守しなかった。「他人が自分の中に住む」どころではない。キリストは、人間そのものになられたのだ。そしてこの「危険な旅」は十字架へと続く。本気に出会うとそこまでいかざるを得ないのか。ああ、危険だ。イエスのようには出会えないなあ。いのちがいくつあっても足りない。しかし、それでも私たちは旅に出る。「私に従ってきなさい」とイエスは誘っておられる。さあ、書(聖書)を持ち旅に出よう!危険な隣人があなたを待っているゾ。そうして私たちは人となるのだ。

今回の「隣人に出会う旅」には、十一名の中高生が参加した。先週の巻頭言で「隣人に出会う旅は危険な旅だ」と述べたが、それは「出会い」が本来「出て行って会う」ことを意味し、「出会う」とこれまでの自分(の場所に)では居られなくなるからだ。「出会う」と相手が自分の中に住み始め「自分勝手な生き方」は出来なくなる。不自由で煩わしい。ただ、だからと言って「出会わない方が安全」などとも言えない。神は天地創造において「人はひとりでいるのは良くない」(創世記)と明言し「助け手(もう一人の人間)」を創られた。「出会い」無き人生は御心(神の思い)に反し「良くない」状態となる。
四日目のプログラム「旅の先輩に聞く」において田口嗣先輩は後輩にこう語った。「隣人に出会う旅は終わりません。僕はまだ旅の途中にいます」。「出会いの旅」は、被造物である人間の本質に関わる。その故に生涯続くのだ。さらに「隣人に出会う旅」は、「もっと危険な旅」へ続く。旅の先輩方は、すでにその危険な旅に踏み込みつつある。それは「敵と出会う旅」である。「隣人」とは自分以外の存在、すなわち「他者」を言う。そしてこの「他者」の極みが「敵」なのだ。「敵」は、自分にとって最も異質な存在だ。
隣人と言えば、ルカ福音書「良きサマリヤ人のたとえ」を思い出す。「隣人とは誰か」との問いに、イエスは譬えを語り「あなたも隣人となりなさい」と告げる。しかし、登場する隣人は単に「慈悲深い人」ではない。彼は、ユダヤ人と敵対する「サマリヤ人」であった。「敵が隣人になる」。この譬えの深みはここにある。
更にイエスは「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ福音書5章)と言う。「隣人を愛せ」は、旧約聖書レビ記十九章に登場するが、ここには「敵を憎め」は出てこない。さらに「隣人」の中身にも大きな問題がある。それは「ユダヤ人同胞」をのみ指す言葉だったのだ。つまり「隣人(同胞:仲間)を愛せ」と何百年間も言っている内に「敵を憎め」がセットになった。これは、隣人(仲間)だけを愛するという生き方がいかに歪んでいるかを示す。「集団的自衛権」などと言っていると敵を増やすことになる。
「愛せない」から「敵」なのだが、そんな「自分の思い」とは正反対の決断をせよとイエスは迫る。「敵と出会い、敵を隣人とせよ」。それは危険極まりないことだ。案の定、イエスは敵を愛し十字架に架けられた。それ見たことか。それでもイエスは敵のために祈られた。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23章)。とても真似できない。だけど、今日の世界が平和を手にするにはこの祈りしかないと思う。「隣人に出会う旅」は「敵に出会う旅」へと続く。「無理な注文」と言いたいが、そうしなければ世界は分断され殺し合い続けることになる。
さあ、書(聖書)を持って旅にでよう!さらに危険な旅があなたを待っている!中高生の皆さん。次は、旅の先輩としてやっておいで!旅は、続く!

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