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2016/12/18

確信犯の時代におけるクリスマス

現代は「確信犯の時代」だということができる。「確信犯」は、多くの人が「悪いことだとわかっていながら行われた犯罪や行為」という意味で使っている。しかし、実はこれは原意ではない。「確信犯」は本来「道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪」を指す。悪いと分かっていて実行される犯罪のことではなく、良いことをしていると確信して実行される行為を意味する。周囲や社会がそれを断罪するだけで、本人はそれを犯罪とは認識していない。「思想犯」、「政治犯」、「国事犯」などがそれにあたるが、彼は、国の為、正義のために行動したのであって悪いことをしたという覚えはない。そして、その最たるものが戦争である。戦争には英雄しか登場しない。

先日の相模原市で起こった障がい者虐殺事件においても容疑者の青年は、「日本と世界の経済の為」に「生きる意味のないいのちを抹殺した」と主張している。障がい者を抹殺することは犯罪ではなく社会貢献なのだ。ヘイトデモやその先導者である「在日特権を許さない市民の会(在特会)」も「確信犯」であり、正義の名の元に他者の尊厳を冒している。しかし、その自覚は一切ない。

ナチスは、ルターの二王国説を悪用し自らの権力を神格化した。このナチスに抵抗した牧師ボンヘッファーはナチズムとの闘いの数年前に「キリスト教倫理の根本問題」という講演において次のように語っている。「われわれは善と悪との間で選択するというわけには行かなくなり、ただ悪と悪の間に立たされるのである。そしてここにこそ、倫理の本来的な、また最も困難な問題がある」。人間の行為、しかも「倫理的行為」であっても、それは人間の行為である限り「悪と悪の間」での選択に過ぎない。それが一般倫理とキリスト教倫理の最も大きな違いだと言う。私たちがどれだけ自分が正しいと主張しようと、その行いが正義だと言い張ろうと、それは所詮「悪」の行為に過ぎないとボンヘッファーは言う。

クリスマスを迎えた。イエス・キリストは、今日この事実をつけつけるために世に来た。「おまえさんがどんなに自分は正しいと言っても、お前さんも赦されて生きることしかできない罪人なのだ。だから、私はお前を赦すために来た。お前は赦されなければならない罪人だ。その事実を知りなさい」。これがクリスマスの意味なのだ。「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ書三章)。それが人間の現実だ。

「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。(中略)もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ九章)。確信犯は、まさか自分が裁かれるとは思っていない。自分は正義が見えていると主張する。正しいと思い込んでいる。だからイエスは世に来た。確信犯を「ただの罪人」へと解放するために。赦されて生きるという等身大の自分で居られるようするために。そして、確信犯に対するさばきの実行として十字架に架られた。この恵みに心して与らねば、私たちは互いに正義を振りかざし、確信をもって殺し合うことになる。

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