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2019/10/13

10/13巻頭言「第11回 ゴーイングホームデイ開催」

 NPO法人抱樸主催の第11回のゴーイングホームデイが開催された。これまで出会った方々と一緒に「家族(ホーム)」として一日を過ごす。午前中は運動会、午後はかくし芸大会、そして最後にふるさと合唱と追悼の時を持つ。数か月に及ぶ実行委員会の周到な準備のもと、今年も250名程が参加した。NPOのスタッフ、ボランティア、自立者に加え、ここ数年は子ども・家族支援で出会った子どもたち、中には赤ちゃんを抱えた若い母親もいる。この日、北九州市立大学の体育館は「大きな家」の様相となる。
「ホームレス支援」と言うと「自立支援」を思い浮かべる人が多い。しかし「自立支援」は、抱樸にとって一部に過ぎない。最大の課題は「共に生きる」ことである。抱樸は、支援する側、される側を超え、「家族」のように生きていく。ゴーイングホームデイが「運動会」であるのはそのためである。
僕にとって運動会は「家族」の時だった。その日、家族が「ゴザ」(イグサで織った敷物)を抱えて応援に来る。お昼になるとお弁当を広げ、この日は給食ではなく家族と共に食べる。「運動会は家族の日」という印象が僕の中に深く刻み込まれている。
僕は、大人になり結婚し子どもも3人授かった。ただ、牧師となったので「家族の日」を過すことはできなくなった。運動会は日曜日に行われる。礼拝前の一瞬、学校に駆け付ける。「お父さん来たよ!」と言わんばかりに子どもたちに「印象付け」て礼拝に戻る。自分が子どもの頃に経験した「家族の日」を過すことはなくなった。いや、考えてみれば僕の子ども時代も仕事の都合で運動会に来られない親はいたと思う。仕事の都合ならばまだしも、そもそも親のいない子どもたちは「あの日」どうしていたのだろう。あるいは親はいても運動会に来ない、お弁当も作らないという親に育てられていた子どもたちは「あの日」どんな思いで過ごしていたのだろう。(そういう現実を私達は抱樸の実施する『子ども家族まるごと支援』で一層知ったのだが) 僕が子ども時代「運動会は家族の日」と思っていたのは、当時たまたま僕に与えられた「恵み」に過ぎなかった。
ならば「家族になればいい」。みんなが「家族の日」を過せるようにしたらよいのだ。ゴーイングホームデイはそんな思いで始まった。「支援」で始まった関係は「家族」へと進化する。出会いから看取りまでを掲げた抱樸の活動に「支援完了」はない。ゴザはブルーシートになり、弁当は仕出し店のものとなったが、50年前の運動会にはなかった「みんな家族」という風景がここにはある。家族に来てもらえず寂しく教室で学校が準備したパンを食べる子どもはいない。赤ちゃんから90歳まで、200二〇〇人以上の人々が一堂に会してお弁当を食べる風景は圧巻である。僕はあの場面が一番好きだ。
イエスは十字架上で愛する弟子と自分の母に「家族になれ」と言う(ヨハネ福音書19章)。それがキリストの最後の仕事だった。神の家族。東八幡教会は今日も一同でうどんを食べるのだ。

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