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2016/02/28

2016年新年礼拝宣教 進化した猿

(今年の新年礼拝の宣教原稿全文です。今年は、申年ですので、猿について語ります。)

 毎年新年の礼拝は、干支にちなんだ話をしています。私が東八幡キリスト教会就任した一九九〇年は午(うま)年でしたので、最初の新年礼拝は一九九一年1月1日未(ひつじ)の話をしました。羊は、聖書によく登場しますから、比較的スムーズにスタートを切ったというところでした。しかし、その翌年は申(さる)。早速困りました。お猿さんは、聖書にはほとんど登場しません。唯一ソロモン王が輸入したもののリストに登場します。「ソロモン王が飲むときに用いた器は皆金であった。またレバノンの森の家の器も皆純金であって、銀のものはなかった。銀はソロモンの世には顧みられなかった。これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせたからである」(列王記上十章)。これではどうしても説教になりにくい。でも一九九二年は、確かここでやったと思います。ちなみに「サル」という名前の人は聖書に登場しますが、これは人間です。そして、今年が三回目の申年が今年となります。「干支はもうやめておこう」と毎年思うのですが、なかなかあきらめられないのが私の悪癖でして、今年も挑戦します。

 本日の聖書箇所は、ルカによる福音書六章「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、『あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである』」。やはり猿は出てきませんが、ここから「進化した猿」というお話をします。

 このイエス様のことばは難解です。なぜ貧しい人が幸いなのでしょうか。普通は、「貧しいということは不幸なこと」と思われています。さらに「神の国は、あながた貧しい人のもの」とは何を意味しているのでしょうか。たとえ貧しくとも死んだら神の国、天国に入れるので幸せに思いなさいと、イエスは、言いたかったのでしょうか。ともかく、この聖書の箇所から、まず猿のことを考え、当然ながら最終的には人間とは何かを考えたいと思います。

 さて、人間は猿から進化したとされています。すなわち人間は、進化した猿ということです。進化論は、科学的に説得力があると思います。聖書の創造論か、進化論かを議論しても意味がありません。科学の世界と信仰の世界では、その意義も枠組みも違うからです。私は、キリスト者ですから、進化論よりも創造論の方が元気が出ます。動物園でお猿さんを見て、「俺は、猿だったんだあああ!よーしやるぞー」とは思えません。それよりも「人間は、神様のかたちをいただいて、神さまからいのちの息を吹き入れて生かされた」と言われた方がありがたく元気が出るように思います。

 猿と言えば、「到津の森公園」が「到津動物園」だった頃、ゴリラがいました。このゴリラは、「ウンコを投げる」で有名なゴリラでした。なぜか、常に興奮しており、ウンコをつかんでは入園者に投げつけていました。まあ、檻に入れられ見物される身になれば「この野郎!クソくらえ」という気持ちになるのは、よくわかる気もします。動物園も対策として檻にアクリル板を張って飛散して悲惨なことになるのを防いでいました。

 ある時、大学生のグループがやってきて、檻の前でさんざんゴリラをからかっていました。ゴリラくんは、一段と興奮しウンコを投げ続けますが、当然アクリル板に阻まれ届きません。大学生たちが檻の前で記念撮影をし始めた時、なんとこのゴリラくんは、ウンコを集めて空中へ投げました。アクリル板を飛び越して大学生の頭の上からウンコが降り注いだ。これが到津の動物園ウンコを投げるゴリラの伝説です。馬鹿な話をしていますが、人間は猿から進化したという割には、本当はどちらが賢いのかよくわかりません。

 私の場合は、キリスト者でよかったと思っています。聖書に書いてある通り、人は神様によって創造されたと信じています。この方が元気になるように思います。しかも、聖書には、「神のかたちにかたどって」とか、「いのちの息を吹き入れられて」と書かれていて、いっそうありがたい感じがします。

 話を進化論に戻します。私たちは、猿を見て自分たちがいかに進化したかを確信するわけです。つまり進化とは「物事がよりすぐれたものに発展すること」です。人間は、猿の数倍優れている、と人間は思っている。「猿知恵」とか「猿まね」ということばがありますが、どれも「猿」を劣っている存在だという前提に立ったことばです。しかし、人間が進化したというのなら、どれぐらい優れたものとなったのか、考えてみる必要があると思います。

 日本の霊長類研究の第一人者に松沢哲郎さんという方がおられます。数年前まで京都大学霊長類研究所所長をされていました。現在は日本モンキーセンターというところの所長となられているようです。松沢さんは、長年チンパンジーの研究をしてきました。岩波書店から「想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心」という本を出されていますが、実に興味深いことが書かれています。その本の中で、仰向けで安定して寝ている人間の赤ちゃんはすごく可愛い。人間を含めて子育てする動物の赤ちゃんはみんな、親からの支援を引き出すように可愛い顔をしているのだけれども、人間の赤ちゃんは異様に可愛くて、異様に愛想がよいと松沢さんは指摘します。あんなにニコニコしなくてもいいのにと思うぐらいニコニコする。なぜ、そんなに愛想がいいのか。それは、お母さんだけでなく、お父さん、お祖父さん、おじさん、おばさん、みんなから助けを必要とするからだと松沢さんは考えます。仰向けの姿勢で安定して、にっこりと微笑むように人間の赤ちゃんはできているらしいです。チンパンジーの赤ちゃんも可愛いけれど、キョトンとしている表情のほうが印象的で、人間の赤ちゃんのようにあんなにニコニコしない。それは、周りの存在から支援をもらうためであって、これは他の動物にはない異常な光景だそうです。

 さらに、仰向けで寝るということも他の動物とは違うそうで、人間の赤ちゃんだけが仰向けに寝ます。仰向けに寝るということは、全くの無防備な状態を意味しているそうで、仰向けで眠ると他の動物に襲われる危険が高まります。だから動物は基本的に仰向けでは寝ないそうです。

 仰向けという姿勢は、レスリングにおいても柔道においても負けた人の姿にほかなりません。人間だけが、生涯にわたって仰向けに眠るわけで、人間は生涯降参した姿で寝ているということになります。つまり、人間の赤ちゃんは、弱い姿をさらし、誰かに助けを求めていると言えます。また、なるべく愛想良くして、周りに愛され、周りの信頼を引き出そうと本能的に笑っている。弱さから何かを生み出そうとしているのが、人間の赤ちゃんであり、猿とは全く違うあり方なのです。しかし、猿は、自分で自分を守る強さを持っているので、笑う必要はないということだそうです。

 松沢さんのことばをヒントに考えますと、さらに猿と人間の違いがあるように思います。例えば、猿は裸です。それに比べて人間は衣服を身にまとう。繊維を作り、縫製技術を持ったという点では、明らかに猿にはできない芸当を人間は身に着けたと言えます。これは進化です。でも、そもそも猿は身体的にも強く体毛があるので、衣服を必要としていないだけです。この点では、猿の方が一枚上手。猿は、裸で大丈夫ですが、人間は裸では、生きていけません。裸だと病気になったり、ケガをしたりしてしまいます。大体寒さや暑さに対応できません。だから、猿に比べて人間は弱くなった、ということになります。果たしてこれは、進化でしょうか。

 さらに、米国デラウエア大学古人類学者カレン・ローゼンバーグ博士は、骨盤の形を解析することで猿から人間への進化を語っています。これまでの進化論は、猿と人間の違いを二足歩行や、脳の発達、また、両手が使えるようになって道具を生み出し狩猟が始まった点に注目してきたと言います。しかし、ローゼンバーグ博士は、これらは男性の視点に立った進化論だと指摘しています。女性である博士が注目したのは出産の仕方でした。人類と他の霊長類では出産の仕方がかなり違うと博士は言います。人間は、直立歩行の結果、骨盤が狭くなり産道が複雑に曲がり、子どもは旋回しながら生まれてきます。脳の肥大もあって人の出産は超難産となってしまった。これが猿と人間の違いだと博士は指摘するわけです。私自身、子どもの出産に立ち会いましたが、通常の出産であったとしても、ものすごい痛みと苦難の中で子どもは生まれるという事実に圧倒されたのを思い出します。「産みの苦しみ」とは本当にそうだ。まさに、命がけの瞬間でした。

 一方で四足歩行を続ける猿は今も一人(一匹)で出産する、できるそうです。骨盤の位置などからして、猿は自分で自分の子どもを取り上げることができる。しかし、人は骨盤と背骨の位置関係から一人で子どもを産むことができなくなりました。自分で子どもを取り上げることができない。そもそも超難産となりました。その結果、人は出産において、他の人の介助を必要とする、誰かの助けが無ければ産むことができなくなったと博士は指摘します。そして、子どもを取り上げてくれる人、つまり助産役が必要となり、さらに家族や社会を生み出すこととなったというわけです。これが博士のいう猿から人への進化でありました

 進化とは、通常「より優れたものになること」です。しかし、ローゼンバーグ博士の進化論は、単純に優れたものなることや強くなるということを意味しませんでした。猿が一人でできたことを人が出来なくなった、これを進化と言うわけですから。これは、明らかに「劣った」と言って良い場面です。猿から人への進化においては「弱くなること」を含んでいました。しかし、この弱さ―「超難産になったと言う事実」が、私たちを結び合わせ、猿にはできなかった社会などの仕組みをつくりだしたのです。

 弱さが絆の根拠となる理由がここにあります。とかく弱いことを忌避する現代を生きる私たちにとって、この進化の事実は「人間とは何か」を今一度考えさせられるものであると私は思います。私たちが猿から人間に成れたのは、弱かったからです。

 現在の社会は、やれ自己責任でやれ、ひとりでやれと言います。しかし、それは「サルに戻れ」と言うに等しい。私は、誇り高い人類であり続けたいと思います。それは、弱さを誇る生き方に他ならないのです。ひとりではできない。ひとりでは生きられない。それは人として胸を張っていいことなのです。一人では生むことができないという宿命的弱さをどれだけ大事にできるか。それは、人が人であり続けるために必要なことなのです。私たちは、いまさらサルには戻れないのです。

 本日取り上げた聖書の箇所は、ルカによる福音書六章の言葉です。「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、『あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。』」 私たちは、猿ではありません。進化した人なのです。誰かに手伝ってもらわないと生まれることさえできない人なのです。そんな風にお互いが出会い、「ありがたい」と思います。それが、私たちの「幸せ」なのです。

 パウロは、肉体に何らかの障害を持っていたようです。彼は、そのことに苦しみながら、しかし、このように告白します。コリント人への第二の手紙一二章。「しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」

 これこそが進化した存在である人間の言葉です。「私は無敵だ。私は、完璧だ」。これは進化した人間のことばではありません。「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」これこそが進化した人間のことばです。

 このような進化の現実は、人を新しい生き方に導きます。進化における倫理と言っていいでしょう。マタイによる福音書二五章には、次のようなイエスのことばがあります。「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

 進化した猿とは、ここに登場する最も小さい者のことです。お互いが進化した者、すなわち最も小さな者である自覚を持つことは大切です。さらに、その最も小さな者にしたか、しないかが問われるのが、進化した人間の社会の倫理の問いなのです。このことを大事にする社会は、これからも進化し続けます。このことを大事にしない社会、すなわちすぐに自己責任論を振り回す社会は、猿へと退化する社会です。私たちは、さらに貧しくなる。弱くなります。そして、さらに幸いな者になる。「貧しき者は、幸い」なのですから。

新しい年。誇り高き人として歩んでいきましょう。   

祈ります。

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