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2018/01/21

新年礼拝宣教 「『犬にやるな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」 その③

イエス様は、それを言っちゃいかんでしょう。他の人がたとえなんと言っても、イエスは、そんなことを言わないし、言っている人をお叱りになるのが、イエス・キリストではないか。問題は、本当にこんなことをイエスが言ったのか、ということ。このことばは、どう読んでも、差別的であり、民衆を分断しているであり、偏狭なユダヤ民族主義に過ぎない。本当にこれがイエスのことばだとすれば、どう読めばいいのか。今年のお正月は、この箇所でやろうと思ったが、調べれば調べるほど困ってしまった。先に申し上げた通り、聖書においては「犬」には良い意味がない。犬には申し訳ないが。そのような犬のイメージを当時の社会や旧約聖書においては、異邦人や異教徒に対して用い、彼らを「犬呼ばわり」した。すなわち、汚れの烙印を押された人々を「犬呼ばわり」や「豚呼ばわり」していたのだ。
そもそもユダヤ教の時代には、ユダヤ人が異邦人・非ユダヤ人に対して用いていた言葉を、新約聖書の時代になって、初代の教会は、これを「非キリスト者」や「ユダヤ人」に対して使うようになっていた。例えば、パウロは、ピリピ人への手紙において「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい」と言っている。パウロはキリスト教を世界に広げた中心人物である。そのパウロが「肉に割礼の傷をつけている人たち」、すなわちユダヤ人やユダヤ教徒を「犬ども」と言っている。差別は拡大再生産されていったのである。差別と分断が拡大していくといずれ憎悪が敵対を生み、そして紛争や虐殺につながっていく。私たちは、今日の世界においてこの分断の根を断ち切らねばならない。だとすると、イエス・キリストのあのことばを、分断のことばとしてそのまま読むわけにはいかない。さて、困った。あのイエスのことばはどうしようか。
一つに「無かったことにする」という手がある。これは、しばしば聖書学者の研究成果を利用してなされる手法で「あれは、実はイエスのことばではなく、初代教会のリーダーたちが、自らの差別的な考えをイエスが言ったに過ぎない」としてしまう。すっきりするが、しかしそれでは面白くない。さて、どうするか。
4.イエス自身が犬だった。 やはり聖書に書かれている言葉であるから、なるべく「除外」することは避けたい。その上で、そもそもイエスは、周囲の人々からどのように思われていたのかをまず、考える。結論から言うと、実はイエスご自身が周囲から犬扱いされていたということ。すなわちイエスご自身が「汚れた罪人扱い」されていたのではないかということである。イエスの最期である十字架での処刑ということからしてもそれは言えなくはない。マタイによる福音書9章10節には、次のような場面がある。「それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた」。イエスは、罪人たちと食事をしていたのだ。

つづく

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