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2017/02/16

2017年1月15日 神の家族を覚える礼拝

音声データを追加しました。(2月16日更新)

宣教/奥田牧師 「神の家族になるため必要な二つの勇気」

聖書「ヨハネによる福音書13章4-9(新約 口語162頁 新共同訳194頁)」


1月15日からの一週間を、「神の家族を覚える週間」として祈り、礼拝を持ちました。
すべての人が、イエスに赦され集められた「神の家族」であること、その家族について課題を出し合い、祈り覚えました。
その際、改めて「神の家族」について、以下の内容で確認しています。

彼はどこに
神の家族とはなにか

いのちと平和委員会の持つ視点は、教会のすみずみまで横串として貫かれているべき視点である、と言われます。ではそのいのちと平和の横串とは何か。
それは「どうでもよいいのちなどない」という視点なのか。
「平和を求める」ということなのか。
「他者のために」という教会の使命に生きていることなのか。

いのちと平和委員会そして教会が、その役割として根本に持っているものは、「彼はどこにいるか」という絶え間ない問いではないでしょうか。
彼、つまりイエス・キリストを必死で探すまなざしのようなものではないでしょうか。横串は、イエスそのものではないでしょうか。
イエスのことばと生き様によって示される福音が、教会の横串として貫かれ、我々はそこにぶら下がっている。

では、イエスとは誰か。
それは、栄光も無く、我々によって踏まれ、裏切られ、吊され、打たれ、十字架の刑で死なれ、そして復活された方です。
十字架、それは刑罰です。何かのicon(象徴)ではなく、物語の道具でもなく、壮絶な痛み苦しみをもった死刑罰です。

イエスの十字架刑は、罪人の我々をあがない、それは我々を生かすためであったと聖書に書かれています。神が果たされる刑罰である以上、そこには罪人が存在する、ということです。そうではないのなら、イエスの十字架は人間の歴史の中のひとつの処刑の出来事になります。しかしイエスは私たちのために十字架にかかられた。私たちはそう信じると告白しました。聖書には、それほどまでに私たちのいのちは神によって尊ばれていると書かれています。

イエス・キリストを探す。それはどうすればよいのか。難しいことです。神には神の時、神の計画があります。
しかしイエスの御前で他者と生き、その中で自らを知り、祈りの中に自らを嘆き、しかし「それでもよい。生きよ。」という彼の声を聞く。毎日々々聞く。瞬間々々に聞く。イエスを踏みつけ、裏切り、それでもイエスの十字架によって赦される、という繰り返しの中に生きる。私たちのものではない、イエスの痛みを、ズキンと感じる。このような、心の中の見えない営みがあるのかどうか。串先が、私たちに当たっているのかどうか。

遠藤周作の小説「沈黙」に出てくる主人公の司祭ロドリゴは、キリシタン弾圧の中、信徒に踏み絵を辞めさせようとポルトガルから長崎に来ます。しかし村人の殉教を目の当たりにした彼は、怖くなり山に逃げます。救いを求めてさまよいますが、神は沈黙しています。その後山の中で、キチジローという信徒に出会います。彼は役人の脅しを受けすぐに踏み絵を踏むような人間。銀貨300枚と引き替えに、慕っていたロドリゴを役人に売り渡す男。
裏切りによって捕えられ牢に入れられたロドリゴは、闇の中から聞こえてくるうめき声に悩まされます。それは穴に吊された信徒の声。自分の救い(彼の思う)か、踏み絵と引き替えに信徒のいのちを助けるのかを悩むロドリゴ。ついに大声で泣きながら足を上げイエスを踏もうとします。殉教できない自分の弱さを嘆き、鈍く痛む足。痛む心。
その時、銅板上のイエスが言います。
「踏むがいい。おまえの足の痛さはこの私が一番良く知っている。踏むがいい。私はおまえ達に踏まれるため、この世に産まれ、おまえ達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」
そのようにロドリゴは、殉教を求める神ではなく、いのちそのものを慈しむ神に出会います。
5年後彼を裏切ったキチジローと再会します。キチジローは泣くような声で、「おいのように生まれつき弱かもんは、踏み絵ば踏めと役人の責苦を受ければ…。」と悔いて嘆きます。
しかしロドリゴは言います。「その踏み絵に私も足をかけた。この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私たちの弱さを一番知っているのは神だけなのだ。強い者も弱い者もない。苦しみに大小もない。この国におまえの告悔を聞く司祭がいないのならこの私が唱えよう。…安心して行きなさい。」
踏み絵を踏むしか無かったキチジロー、その弱さと共に生きていくしかないキチジローの苦しみは、自分の苦しみと何も変わらないことに気づくロドリゴ。それでもいいといって、2人の痛みを分かち伴なってくれるイエス。

他者と生きるということにおいて、もし私たちが誰かと本当に繋がられるなら、それはイエスの十字架上の声が、ロドリゴのように、私ではないいのちにも上も下も無く等しく語られていることを見いだすときにではないでしょうか。
十字架上のイエスの声を聞く中で、自らの弱さを知り悔い改め、自らの生き方を探していく。その作業を、一人一人が日々の生活の中で、瞬間のなかで営むこと、このことを抜きに、他者を尊ぶことは本当には難しいのかもしれません。私たちは、キチジローの中に自分を見いだせるか。ロドリゴの中に自分を見いだせるか。この罪人として受け入れ合った2人の関係に、神の家族としての関係を重ねて思います。2人が繋がるのは、彼らの感情では無く、イエスの等しい赦しと、等しい伴いによってです。

赦しには、また赦されたという思いには、罪人を自分の中に見いだすという前提が必要です。罪と十字架上のイエスの赦しと、その先にある希望を、他の赦された人と共に必死で探していく。そのような営みを、イエス・キリストという横串に共にぶら下がりながらなしていく、それが神の家族の基盤ではないかと、いのちと平和委員会は思います。

教会は全てのいのちを、疲れ傷ついたいのちをそのまま受け止めるところです。だからこそさまざまな教会活動の渦のなかに、忙しい出来事の中に、きちんとイエス・キリストの十字架の痛みを探し、感じ続けているかが大切なのではないでしょうか。

なぜなら、そのイエスの痛みを感じるから、あなたのいのちを大切に思える。その痛みを感じるから、あなたは空腹のままではいけないと思う。その痛みを感じるから、あなたはひとりぼっちではいけないと思う。
神の家族とは、そういうものではないかと思います。
以上

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