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2017/11/19

東八幡キリスト教会がバザーをやる意味

とかく教会でバザーをすると「神の家を汚すことにならないか」という議論になる。東八幡教会ではこの声は上がったことがないが(それもいいのかな?)、「まあ、昔はそんな議論がキリスト教界にはあったのだ」と年寄りみたいなことを言っておこう。
イエスは神殿で商売をする人々に「父(神)の家を強盗の巣にした」と激怒された。イエスは、「売り買いしていた人々」「両替人」「はとを売る者」に怒った。ざっくり言うと、これらの人々は神殿にお参りする貧しい人々を相手に暴利を貪っていた。例えば「両替商」とは、庶民が持ってきたお賽銭に色々難癖をつけて「それは使えないから、お祓い済みのこれと両替しなさい」と商売をやっていた。イエスは、そういう輩を「強盗だ」と非難した。イエスは、本来人のいのちを守るはずの神殿が人を苦しめている現実に怒られたのだ。さて、軒の教会である東八幡教会のバザーは、イエスに叱られないか。その意義(言い訳?)を考えてみようと思う。
東八幡教会のバザーの第一意義は「いのちや思いを引き継ぐ」ということにある。バザーの品物の多くが地域の方から提供される。取りに伺うとおばあちゃんが待っておられて「これは死んだじいちゃんのものなの。うちのおじいちゃんはコレコレこんな人だったの。じいちゃんの遺品、処分しようと思ったんだけど、なかなかできなくてね」という話しを聞く。ある人は娘に作った七五三の着物を出してこられた。全部が全部ではないが、思いがこもった品物が提供される。その思いを引き受けるのがバザーだ。だから荷物の回収は牧師さんの仕事。ゆっくり、じっくり回ってお話しを聴き、お茶などをいただくのがいい。回収の期間などもう少し長い方がいいんかな。収益は、いのちを支える活動に送られる。残されたいのちの品物を次のいのちに引き渡す。
第二の意義は「お客さん無きバザー」ということ。このバザーは、全員が奉仕者となる。品物を出してくださった方がお客さんにもなってくださる。教会員は、事前準備を担当する者、自宅で手づくりを担当する者、品物の提供、当日の奉仕、購入で協力する人、祈る人。全員が何らかの役割を持てるように工夫する。「私は関係ない」は無い。人は「助けられること」もうれしいが、「誰かの役に立つ」はもっとうれしい。
第三の意義というか留意点は、それでも「強盗の巣」への誘惑に常にさらされるということ。いろいろと高尚な意義はあるが「売買」であることは事実。当然、時には「欲」がむき出しになる。だいぶ以前「万引き」が横行したことがあり悩まされた。収益がやはり気になる。一〇〇万円を超えたら嬉しい!「わずかでも寄付できればいい。金額は関係ない」とは考えない。「一円でも儲けたい」と躍起になる。それが東八幡教会だ。だからバザーは「欲との闘い」となる。これに関わる全ての人は「赦された罪人」であるという自意識を持たねばならない。それが無ければ「強盗の巣」で終わる。
さて、いよいよバザーとなる。ともかく儲けるぞおおおお!なんてね。東八幡教会の使命の体現として、キリストにあるいのちと平和を示すバザーとなるように祈りたい。

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