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2019/05/26

5/26巻頭言「うれしいことと怖いこと―敬虔とは何か」

 今年の活動方針に「敬虔を重視すること」を提案した。一般に「敬虔」とは、「うやまいつつしむ気持ちの深いさま」を意味するが、私は「行動」と「祈り」のバランスだと考える。人々に仕えたイエスだが、時に独りで祈られた。東八幡教会は、言うまでもなく活動的な教会だ。その分、敬虔のバランスが悪いように思う。「出会った責任を果たすこと」と「静まって祈る」こと。両者が同時に展開される。そういう敬虔な教会を目指したい。まあ、一番バランスが悪いのが牧師の私で、「どの口が」と言われそうだが、少しお付き合いいただきたい。
 「静まって祈る」いうこの言葉は、厳密には「静まらされ、祈らされる」ということだ。私達が考え、決断しているのではない。「そうせざるを得ない」ということで「静かにしている」に過ぎない。それは「畏怖」における沈黙だと言える。「畏怖」とは「おそれおののくこと」。つまり、怖くて黙っているのだ。
聖書には、こんな場面がある。イエスの誕生を告げた天の軍勢を前に羊飼いたちは「彼らは非常に恐れた」とある。あるいは、イエスの復活を告げられた女たちは、「おののき恐れながら墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかった」と書かれている。救い主の誕生もイエスの復活も、いずれも「うれしい」場面に他ならない。彼らも当然そう思っただろう。しかし、彼らは「恐れ」ていた。「うれしい」と「怖れ」。そこには矛盾する事柄が同時に存在していた。「敬虔」とは、この二つの事柄を指すのであり、特に「畏怖」は重要だと思う。
 学生時代、ルドルフ・オットー「聖なるもの」を読んだ。オットーは「ヌミノーゼ」という概念を提起した。それは、聖なるものに面した時に生ずる「畏怖」と「魅惑」という両義的な感情を伴う体験のこと。宗教というものの核にはそのような「非合理的な体験」がある・・・・ムムム、難しい。
 オットーは忘れよう。でも、「怖れ」を持つことが宗教の本質であるということはその通りだと思う。「敬虔さ」が足りなりということは、言い換えれば「怖れが足りない」ということだ。「怖れを知らぬ勇ましさ」は、宗教の本質からずれた事柄だと思う。十字軍やジハードが嘘くさいのはこのためだ。
 「怖れ」は、ある意味「正体不明の事柄」であり、人間には把握できない、非言語的なものであり、「感じるしかない」ようなものだと思う。「ゾッとする」という感じか。それを無理して「言語化(解説)」する別物になってしまう。東八幡教会は、ある意味「言語化」に熱心だ。最近のヒット作は「神様は、どうでもいい『いのち』をお創りなられるほどお暇ではない」。わかりやすいし、そこにおける神様は、私達を愛してやまない方だ。私達は、そんな神様をうれしく思う。一方で、その神に私達は「畏怖」を抱かねばならない。羊飼いや女たちが「ゾっとした」ように。敬虔とは何か。これからも考えていこうと思う。

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