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2019/04/07

4/7巻頭言「それは後のお楽しみ」

「自分は何のために生きるのか」は重要な問いである。できれば「人生の目的」を明確にしたいと多くの人が願っている。
しかし、私自身振り返ると「何か目標を持っていた」と言える場面はほとんどなく、正直「行き当たりばったり」でやってきた。そもそも神学部に行ったのも、当時国立大学の教育学部一本ねらいだった私に、担任の野田先生が「どこでもいいから私学も受けとけ」と言ったことから始まる。隣の席が野間くんで、彼は関西学院大学を受験する予定だったから関学の願書をひと揃え持っていた。余っていたのが理工学部と神学部。それで神学部の願書を譲ってもらい受験した。すでにキリスト者ではあったが牧師という目的など微塵もなかった。結果、関学神学部へ行くことになる。
国立受験失敗の失意の中、行きたくもない大学に行くことになった。滋賀大学に行く予定だったので自宅通学するつもりが、突然の下宿暮らし。五月「飯おごってやるからついておいで」と二学年上の吉高先輩に連れられ「釜ヶ崎」に。騙された!と気づいた時は遅かった(ご飯はおごってもらったが)。しかし、私はそこで日雇労働者やホームレスの現実を知る。「行きたい」と思っていたわけではない。「知りたい」と思っていなかったどころか「釜ヶ崎」自体知らなかった。振り返ると「あの出会い」が大きな意味を持ったのだが。
牧師になったいきさつが「野間くんだった」となると信徒の皆さんはさぞ、がっかりされるだろう。やはり、牧師ならば「私は神に人生を献げることを目的に神学部に行きました」と言ってほしいだろう。すみません。あるいは「困窮者の人々と共に生きるという目的を果たすため釜ヶ崎に行きました」と言えたら支援団体の理事長らしい。すみません。
残念ながら、私はそういうことではなかった。いつも思いがけない出会いによって、それに巻き込まれるように、すべてが始まり、進んでいった。自分自身の考えや目的はなかった。気が付けば、大きな渦の中にいた。さわされど、これは言える。その時々に「あー良かった」「あー面白かった」と言えたのだ。結果論だが、生きてきた意味はあったのだ。
「男はつらいよ」の第39作「寅次郎物語」のラストシーン。甥っ子の満男と寅さんとのやり取りがある。満「人間は何のために生きてんのかな?」寅「そんなぁ 難しいこと聞くなぁ え~。うーん。何て言うかな。ほら、あー生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるだろう。そのために人間生きてんじゃねえのかな…」。
「目的設定」が先ではない。生きていると、出会っていると「あー生まれてきてよかった」と言える日がくるのだ。それは「結果」としてわかるに過ぎない。だから、あまり「なんのために」と考えない方が良い。天使から妊娠を告げられたマリアは「Let it Be(なすがままに)」と答えた(ルカ福音書一章)。彼女は「なんのために」とは問わない。それでいい。そうして人は生きていく。いや、生かされていく。時々振り返り「あー生きててよかった」と思う。それが「生きてきた意味」となる。それは、「後のお楽しみ」なのだ。

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