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2021/01/10

1/10巻頭言「今日、祈りとは何か」 その②

【今週のことば】   
「応えられた祈り」という有名な作者不明の詩がある。これはニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に掲げられているというが、この詩は「祈り」が成就するとはどういう事かを示してくれている。
「大きなことをしようと、強さを求めたのに、小さなものの気持ちがわかるように、弱さを与えられた。より大きなことをなそうと、健康な体を求めたのに、より善いことをするようにと、病弱を与えられた。楽しく楽に暮らせるように、お金を求めたのに、生き生きと賢く生きるように、節約の生活が与えられた。世のすべての人に誉められようと、権力を求めたのに、真実に気づき従うように、地に生きる道を与えられた。人生を楽しめるように、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを受け入れ幸せになるように、生きる場を与えられた。自分が求めたものは何一つ手に入らなかったけれど、私自身気づかない心の叫びに耳を傾けていてくれた。真実に背いていたにもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられていた。この世界のすべての人の中で、私は最も豊かに祝福されている」
 
2、弱さの承認―「ニーバーの祈り」
随筆家であり東京工業大学教授の若松英輔さんが「祈り」についてこう述べている。「人間がこの世で行い得る、最も熱を帯びた行為は、祈りではないかと思っているのです。祈りと願いは違います。願いは自分の思いを神に届けることですが、祈りは超越の声、無音の声を聴くことです。祈りは、自分は弱い者だという地点から始まるのではないでしょうか。祈りを深めるとは、己れの弱さをかみしめることでもある。『私は大丈夫だ』『自分は強い』と思っている人は、あまり祈らないのではないかと思うのです。」(拙著「『逃げおくれた』伴走者」一六八頁 本の種出版)。若松さんは「祈り」を弱さの承認として捉える。ゆえに「己の弱さをかみしめる」ことで祈りは深まる。
弱さの承認が祈りの原点だとすると「強くなりたい」「豊かになりたい」と祈る私たちは、どこか根本的な矛盾を抱えているように思う。弱さの承認としての祈りは、「思うままにはならない貧しい自分の現実を受容すること」なのだと思う。そういう「祈り」は「エゴイズム」から私たちを解放してくれる。「強くなりたい」「豊かになりたい」と熱心に祈る私たちは、実は「祈りの本質」とは反対方向に向いているかも知れない。
   つづく

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