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2021/01/31

1/31巻頭言「今日、祈りとは何か」 最終回

ただ、そのように祈られることもなく、大人になった子どもたちが多いことも事実なのだが。
「主の祈り」も同様だ。「イエスが私のために祈った祈り」が「主の祈り」なのである。この事実に気付く時、私たちは「祈り」の深みを知る。
コロナの時代を生きる光景として
今、多くの人が「祈れない日々」を過ごしている。辛すぎて、苦しすぎて祈れない。先の見えないコロナ禍の中、祈ることがもはや白々しく感じてしまう。そんな時、私たちはどうするのか。
しかし、それでも私たちは祈りを手放さない。祈りをあきらめない。なぜならば、祈りは「安価な願望」から私たちを救い出し、「自分だけ」という自己中心の日々から私たちを導きだす。世界中のすべての人がコロナという十字架を負わされたのだ。私たちは、もはや自分のことだけを祈る無意味さを知った。祈りの主語は、「わたし」から「わたしたち」へと広がったのだ。コロナという大自然の前で私たちは、自分の小ささと弱さを知った。だが、そんな自分を承認する者は、一層深く祈り始める。自分の請願が通らなかったその先に本当の成就の光を見る。
祈れない。しかし、そんなあなたが、すでに祈られている。沈黙の中であなたの心の奥に語りかけられている超越者の声が聞こえるはずだ。静まって、言葉を止めよう。無理に言葉にすると傷は深まる。大丈夫だ。黙って祈ってもらう時なのだ。元気になったら、祈れない人を勇気づけてやるといい。それが祈られた者の希望となる。
コロナの日々は続く。だが、慌ててはいけない。おじけづかない。絶望しない。沈黙の内に最も熱を帯びた行為である祈りがあるのだ。その炎を消すことはコロナにもできない。祈りは、コロナの時代を生きる者の光景だと、私は思っている。

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