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2018/08/19

8/19巻頭言「外的奉仕のための内的集中としての礼拝」

 ナチスが政権を取った1933年秋以降、ドイツは深く長い闇の中に入っていった。いち早くナチスの問題性に気づいたボンヘッファーは、抵抗の意思を示しつつ、しかし、一方でロンドンのドイツ人教会の牧師に就任する。一見敵前逃亡のようなこの行動にバルトをはじめ多くの人々が混乱した。出国前に書いた文章には、「神学学徒は、このような時代の中で、いたずらに悲憤慷慨すべきではない。むしろ、全く冷静に考え、行動しなければならない。彼はここでこそ、何かやってやろうなどと考えるべきではなく、今まで通りに聖書を読み、学ぶべきである。」と言う文言が見られる。「このような時代」において「今まで通り聖書を読み、学ぶ」と言う姿勢は、隠遁の勧めではなかったことは、その後のボンヘッファーやドイツ告白教会の熾烈な抵抗運動を見ても明らかである。ボンフェッファーは、暴力や混乱を「告白的状況」として捉え、だからこそ、キリスト者は、現状をただ混乱や恐怖と捉えるのではなく、そこにおいて現臨のキリストを見出し、そのキリストを告白し、キリストに服従せよと教える。「戦術的に考える必要は全くないのである。純粋に事柄に即して神学的に研究を続けるべきなのである。それが彼の奉仕なのである」。
 2年後、ロンドンから帰国したボンヘッファーが最初に手掛けたのが牧師養成であった。35年に「フィンケンヴァルデ牧師研修所」は開設された。その「提案書」に次のような文章がある。「将来にまちうけている教会の戦いにおいて、人々の心に決断を促し、また、分離すべきものからの決然たる分離を促すように、み言葉を宣べ伝えるためには、また次々に起こってくる危急に応じて直ちに宣教の奉仕に出で立つ備えをするめには、完全に自由で・戦闘準備の出来た牧師の一つの群れを必要とする。そのような牧師たちは、奉仕がもとめられれば、どのような場所にでもおもむく用意がなければならない。同志的な交わりから出て、また再びその中に帰って行く事によって、彼らはそこに、その奉仕のための必要な故郷と交わりを見出だす。修道院的な隠棲ではなくて、外にむかっての奉仕のための最も内的な集中が、その目標である。」「外的奉仕のための内的集中」が、ナチスと闘うキリスト者・牧師の基本的スタンスだとボンヘッファーは語る。
 あの時代から80年が経った。今、世界は、再び闇へと向かっているように思う。戦争の記憶と罪責感は、世代交代とともに希薄となり、大国はエゴを羞恥心なく披歴している。平和憲法は形骸化し、民主主義自体が脅かされている。いのちが分断され、障がい者、困窮者、高齢者、性的マイノリティー、外国人などへの容赦なき攻撃が続いている。政治家の倫理は、地に落ち、この国は指導者無き航海を続けているようだ。この緊迫する時代の中で、キリスト者は、牧師は、何を思考し、どう行動するのか。
 今日「最も内的な集中」としての礼拝が求められている。それを提供することが東八幡キリスト教会の使命であると思う。礼拝の意義を考えたい。

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