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2017/07/23

相模原事件から一年―宗教者としての思い

2016年7月26日相模原市にある障がい者施設「津久井やまゆり園」が元職員である26歳(当時)の青年に襲撃され19人が殺害され、多くの人々が負傷した事件から一年になろうとしている。この件について宗教者として振り返りたい。

彼は「確信犯」であった。ただ、一般に確信犯は「悪いとわかって悪事をする人」と理解されているが、その本意は「自分は良いことをしていると確信して罪を犯すこと」である。彼は、「障がい者は家族を不幸にしている」と言い「日本や世界の経済のために障がい者を殺す」と宣言した。障害のある人々を「生きる意味のないいのち」と言い切った。この事件の核心は「いのちを分断したこと」にある。すなわち「意味のあるいのち」と「意味のないいのち」があると彼は言うのだ。「いのちが分断された」。いのちの普遍的価値がないがしろにされたのが「相模原事件」であった。

宗教者としてこの事件を振り返りたい。「本来」宗教の役割とは何か。それは神仏という普遍的存在や普遍的価値を信じることである。「普遍」とは「あらゆるものに関係しており、例外なくすべてのものに共通であること」の意味。さらに宗教の本質である「救済」についても、「本来」救いは普遍的であり、「例外なくすべての者が救われる」ことが神仏の存在意義である。初期キリスト教は「万人救済説(すべての者が救われるという教え)」を語っていた。キリスト教の基礎を築いた教父オリゲネスはこの立場であった。しかし、教会がローマ国教となり、教会が力をつけはじめると、教会は「救済」を私物化していった。オリゲネスは異端とされ、「信じる者は救われる」あるいは「キリスト者(教会のメンバー)になった者だけが救われる」と教えだしたのだ。教会に順応する者だけに救いを与え、それ以外は「地獄に行く」と恐怖を与えた。既述の部分で「本来」と繰り返したのは、「本来宗教は普遍的でなければならない」ということを意味する。だが実際は「本来の姿」から程遠い。本来分断してはいけないものが分断される時、「意味のないいのち」が生まれる。救済を分断したキリスト教会が、あるいは宗教者が、今回の事件の「道備え」をしてきたのではないかと思う。普遍的価値である「救済」を私物化し自分に都合よく分断してきた宗教者が相模原事件後を生きるとはいかなることか。悔い改める(メタノイア=方向転換)時だと思う。

イエスは「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ五章)と言う。さらに「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とも。「分断されてはいかん」とイエスは言うのだ。

「本来」普遍的でおおらかだったキリストの救済を宗教者は取り戻せるか。それが相模原事件後を生きる宗教者の使命だと思う。

宗教者は、あの26歳の青年になんというか。被害者を考えるときれいごとでは済まされない。だが、「お前には生きる資格はない」と言うならば、それは彼自身が語った言葉に過ぎない。答えの無い時の前で分断の闇が私を誘う。青年が自らの生きる意味の証明、自己有用性の証明として事件を起こしたならば、彼もまた分断の暗闇の中でもがいていたのかも知れない。あれから一年、宗教者は何を語るのか。

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