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2022/08/21

8/21巻頭言「答えのない宿題―やまゆり園事件から6年 最終回」

(幻冬舎の「やまゆり園事件」が文庫化されるにあたり、あとがきを依頼された。以下はその原稿)
本書118頁の裁判における遺族男性とのやり取りはそれを裏付けているように思う。
【男性】「あなたのコンプレックスが今回の事件を引き起こしたと思うのですが、どう思いますか」【植松】「えー、確かに。えー、こんなことをしないでいい社会を・・・」 予想外の質問だったのか。珍しく言葉に詰まった植松は苦笑いを浮かべながら言葉を継いだ。【植松】「歌手とか、野球選手とかになれたらよかったと思います。ただ、自分の中では(事件を起こすことが、)一番有意義だと思いました。」
歌手や野球選手、すなわち世間から評価されている立場に自分がいたら、こんな事件を起こす必要はないと彼は言うのだ。彼が思わず言った「こんなことをしないでいい社会」とはどのような社会だろうか。それを考えることに意味はないのか。「社会が悪いからこんな事件を起こさざるを得なかった」という逃げ口上を認めるわけにはいかない。しかし、「役に立たなければ生きる意味がない」、「生産性が高くなければ認められない」社会に生きる人々(私もまたその呪縛の中に捕らわれている)にとって、その答えを探すこともこの事件を考えることになると思う。そして、二度とこのような事件を起こさせないことに寄与することとなる。
植松の責任を社会化し曖昧にしようと言うのではない。あれは、彼の決断であり、彼の犯行である。ただ、彼が死刑になることでこの事件が解決するとも思えない。遺族の感情は想像を絶するが、私の中にも確かに「植松のタネ」が存在している。経済効率性に偏り、「他人の不幸や不運を踏み台」にしてでも「自分が認められたい」と思わざるを得ない社会が現に存在している。自分もまたその社会の一員であるのなら、私たちはその観点からもこの事件を見直す必要がある。
判決後、自ら控訴を取り下げた植松は現在、再審請求を横浜地裁に出しているという。再び審議がなされるかは不明だが、私は再審如何にかかわらずこの事件を「自らの魂の傷」として刻みつけ、問い続けたいと思う。そのために、私はひとつの「宿題」を持ち続けたいと考えている。「ひとりのいのちは地球より重い」―そんな「当たり前」のことを声高に叫ばねばならない時代を生きるために、その「宿題」は必要なのだ。宿題はこうだ。「もし植松と再会することが出来たなら、私は彼になんと言うか」。一九人を殺し、二六人に傷を負わせ、家族を悲しみのどん底に陥れ、さらに差別を助長した植松に何を語るか。「君には生きる資格はない。君は処刑されるべき人間だ」。そう語ることがどれだけ自然であることか。被害者なら、なおさらそうだ。しかし、立ち止まって考えたい。そのことばは植松が語ったことばと同質性を持っている。とはいえ到底「赦す、生きろ」とも言えない。
「いのちが大事」を「当たり前」とすることは、いのちを金科玉条のごとく仰ぎ、思考停止に陥ることではない。容易に答えられないあの「宿題」の前で呻吟し続けることなのだ。それが「いのちを大切にする営み」であると私には思える。
私の中で事件は終わっていない。本書が文庫化されることでより多くの人とこの事件のことを考え、あの「宿題」の前で呻吟し続けたいと私は考えている。

以上

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