2025/01/26
1/26巻頭言「2025年新年礼拝宣教『はとであり、へびである』その④」
イエスもまた「はと」だけではダメだと言います。「へびのように賢く」あれと。では、イエスが言う「へびの賢さ」とは何を意味するのでしょうか。へびは聖書においても大体嫌われ者です。へびが嫌いな人は少なくないと思います。私もそのひとりです。子どものころからどうもヘビは苦手、いや恐怖そのものでした。実家は田畑や山に囲まれていましたから、学校帰りの田んぼのあぜ道で何度もヘビと遭遇しました。帰るに帰れない、そんな少年時代の夏の日を思い出します。
そもそも「へびのように賢くなりたい」と願う人などおられるでしょうか。今年は巳年で「へびが脱皮して成長するように成長したい」と新年の抱負を語る人がいますが、実際に「へびのようになりたい」という人は多くはいません。例えば学校や会社の面接で「ヘビのような賢い人になりたいと思います」と言う人はまずいないと思います。イエスが言う「へびの賢さ」とはいったい何なのか。私には、それが単に「頭が良い」という事ではないように思えます。
聖書で最初にへびが登場するのは、創世記3章です。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。(3章1~7節)
口語訳では「へびが最も狡猾だった」と書かれています。「狡猾」は「ずる賢い」という意味ですが、最近の協会共同訳では「最も賢いのは蛇」と表現されています。いずれにせよ、ヘビはその「賢さ・狡猾さ」をもって人を誘惑しました。その結果、人類は罪を背負い死ぬことになります。
へびの誘惑は人にとって魅力的だったのは「決して死ぬことはない」「神のように善悪を知るものになれる」という点でした。このことばに人の心は揺れました。死なない、すなわち神のようになれる。これが殺し文句になることを「賢い」へびは知っていたのです。
つづく