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2020/09/13

9/13巻頭言「自立は、つながりの中で―「學鐙」秋号 その①」

 1、はじめに―「助けて」と言えない理由(わけ)
辞書には、「自立」とは「自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと」とある。ホームレスや困窮状況に置かれた人々の支援をしてきた私にとって、これにはいささか違和感がある。なぜなら、自立とは「助けて」と言えることであり、自立を助長する社会とは「助けてと相互に言える社会」だと考えてきたからだ。
12年前のリーマンショック時、雇い止めに遭った若者が路上に投げ出された。彼らの多くは「助けて」と言わなかった。それは、なぜか。彼らの多くは孤立していた。そして、孤立状態は、自己認知を難しくするからだ。大半の青年は「大丈夫」と答えた。これはプライドゆえの強がりではない。自分の現状を認識出来ていなかったのだ。隣に座り込み話す。すると徐々に自分の状況に気づき始め、ついには「助けてもらえませんか」と言い出す。人は他者との関係の中で自分を認識する。他者を失うとこの部分が機能不全を起こす。
孤立を進めた原因の一つが「自己責任論」である。「助けなしで生きる」ことが良いことであるとした結果、「他人に迷惑をかけてはいけない」が社会道徳となった。そんな時代に生まれ、生きてきた若者たちに「助けて」という選択は無かった。そして先述の自己認識不全が重なり一層「助けて」と言えなくなったのだ。
「自立」において大切なのは「生きる意欲」だ。それは何によって醸成されるのか。お金や評価が有効であることは否めない。だが、それ以上に重要なのは「他者との出会い」だ。「人は何のために働くのか」との問いに対して、「食べるため」、「お金のため」との答えが浮かぶ。だが、この「問い」自体が少々的外れのように思う。あるべき「問い」は、「人は『誰のため』に働くのか」ではないか。自分だけならあきらめることも出来る。しかし、「誰かのために」という時には、勝手にあきらめることは出来ない。言うまでもなく、「誰かのため」は結局自分のためにもなる。社会的孤立が進み、「誰か」を喪失する中で、自立の動機付け弱くなったのは事実だ。
2、ハウスとホームは違う
今から32年前、おにぎりと豚汁をもって野宿の人々を訪ね始めた。二年後、居住支援が始まる。最初に入居されたのは70歳近くの男性。入居後、生活保護の申請もできた。私達は安堵した。数か月後「アパートから異臭がする」との連絡が入る。ライフラインはすでに止まっており、室内はゴミ屋敷状態。恐る恐るゴミの中に横たわる本人に声をかける。「なんです」と普通に返事があった。幸い無事。一晩かけてゴミを片付けた。なぜ、こんなことになったのか。
私達は二つの原因を考えた。一つは「本人の要因」。何等かの障害があったのか。あるいは、これまでの人生で「生活自立」の経験が無いのではないか。現在ならばアセスメント能力も向上しており、この点が見逃されることはない。   続く

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