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2018/05/13

5/13 巻頭言 「私たちが信じること」

 先日の韓国と北朝鮮の首脳会談は、一筋の光のように思えた。戦争状態が続く朝鮮半島において両首脳が手をつなぎ分断線を超えるシーンは、歴史の転換が起ころうとしている息吹を感じさせた。さらに、米朝首脳会談が準備されているという。しかし、私は単純に「よかった」と言えない思いがある。
 一連の「希望」を一体何が支えているのか。それを考えることは朝鮮半島情勢のみならず、今後の世界にとって重要だと思う。「なぜ南北対話は成立したのか」、「あれほどに強硬だった北朝鮮がなぜ対話に転じたのか」、「その原動力とは」。私たちの認識が、今後の世界の在り方に影響する。
 2017年11月8日。アジア歴訪中のトランプ米大統領は、韓国国会で「北朝鮮は世界全体の脅威である」と強調した上で「米国は強さを通じて平和を構築する」と訴えた。数日前米朝首脳会談の日程が決まった折にも平和と非核化をもたらすものは強さであると語った。これは、安倍総理も同様で「圧力が必要」と繰り返している。「対話」や「非核化」、「朝鮮戦争終結」は、歓迎すべきこと。だが、これらがこのまま上手く成立したとしても、それをもたらしたものが「強さ」であり「圧力」の結果だと私たちは理解すべきか。実際の各国の思惑はわからない。どのような駆け引きがあったも私たちは知らない。いや、だからこそ、私たちが「どのように理解するか」が重要なのだ。もし、「あれは強さの結果」だと理解すれば、今後各国が「軍拡」へと走ってもそれを否定することはできない。そして平和憲法は破棄される。北朝鮮の脅威を取り除けるためには、それ以上の脅威が必要だということになる。金正恩とトランプと安倍。何が違うのか。
 それを「力への信仰」と言うならば、キリスト者である私は何を信仰しているのか。聖書が伝える救い主、平和の主は、十字架にかけられ殺されたイエスであった。そもそもキリストは、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿」となり、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至」った(ピリピ2章)。救いは、弱さとして現れた。強さではない。パウロは、キリストとの出会いを次のように語る。「主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強い。」(第2コリント12章)。聖書が語る救いも平和は、大統領が語るそれとはずいぶん違う。
 さて、あなたは何を信じるか。非核化が成功しても、それが「圧力」と「強さ」による成果だと理解するならば、私たちは、永遠に暴力から抜け出せない。「強さが平和をもたらす?」一度疑った方が良い。今日の事態を私が単純に喜べない理由はここにある。

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