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2024/02/04

2/4巻頭言「「助けて」という福音―あの時、イエスもつらかった 最終回」

(教団出版局から頼まれて原稿を書いた。「信徒の友」に載るらしい。)  
 世の中には助けてくれる人はいる。イエスは「助けて」を待っておられる。なのに私たちは、みこころも知らず「他人に迷惑をかけてはいけない」と歯を食いしばる。それが時代の空気となって重くのしかかった。でも、イエスはあきらめず、しつこく尋ねてこられる。「治りたいのか。助けて欲しいのか」。だったら正直に答えよう。「助けて」と。そしてイエスに言えたなら隣の人にも言ってみよう。「助けて」と。この社会にはベテスダの池があちこちにある。「助けて」が言えない人が大勢いる。そこに行って声をかけよう。「助けてって言っていいよ。僕もそうだ。助けてもらって生きているんだ」と。
5,イエスの弱音

 ゲッセマネの夜。イエスは弱音を吐いた(マルコ福音書14章)。「ひとりにしないで。祈って。寝ないで」。よっぽどしんどかったに違いない。イエスは「この盃を取り除けてください」と神に祈る。「嫌だ、勘弁してくれ、助けて」と。でも神は答えられない。お弟子は眠りこけている。なんという孤独。しかし、イエスの祈りに弱音が含まれていた。立派な祈り、感謝に満ちた祈りをささげる時もある。しかし「いやだ、しんどい、勘弁して、助けて」と正直に祈っていい。あのイエスがそうやってらっしゃるのだから。
 ネガティブ・ケイパビリティという言葉がある。容易に答えの出ない事態に耐えうる能力と言われている。問題はすぐにでも解決してほしい、苦難は一刻も早く過ぎ去ってほしい。正直な気もち。しかし、そうは問屋が卸さない。ご利益をすべて否定することはできないが、それが期待通りに与えられるとは限らない。信仰を請願成就のみで捉えるとカルト化する。
 うまくいかない現実を多く見てきた。自分の人生もそうだが、出会った人々の多くが苦難の中を生きていた。解決はそうそう起こらない。そんな時、何が人を支えたか。弱音を吐くこと。天地創造において神が備えた「助け手」は問題解決人とは限らない。容易に解決しない現実を共に生き弱音を聴いてくれる人でもある。聖書はそれを「インマヌエル(神われらと共にいます)」(マタイ福音書一章)と呼んだ。病気の癒しや問題の解決は確かに救いだ。残念ながら聖書の時代のように奇跡は起こらない。さらに贖罪。聖書信仰における救済の核と言っていい。
 しかし、聖書において最初に登場する救い主の在り方、それが「インマヌエル」だ。共にいる。問題が解決しなくてもあなたを一人にしない、「孤児とはしない」とイエスは言う。ゲッセマネの祈りにおいて盃は取り去られない。問題は解決しない。「わが思いではなく、みこころのままに」とイエスは言う。神への服従、あるいは委ねということか。それもある。しかし、私は「どんなことがあっても一緒に居てくださいね」と言いたかったのだと思う。一緒に居てくれるからこそ弱音が吐ける。神は、あなたの弱音を聴くためにあなたのそばにいてくださる。
 今、世界は苦難に満ちている。戦争、災害、生活困窮。人々はその中で「助けて」と言うことを憚(はばか)っている。どれひとつ容易に解決するとは思えない。しかし黙ってはいけない。皆で「助けて」を取り戻そう。甘えているのではない。神が「創造された人」として生きるのだ。言わせまいとする今日の社会に対して教会は「助けて」を福音宣教のことばとして語る務めを果たす。「弱音」を「屋根の上で言い広め」よう。(マタイ福音書10章)。大切なキリスト者の使命だと思う。

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