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2020/11/01

11/1巻頭言 「コロナと憲法 その2 生存権とは」

 コロナによる経済への打撃は日に日に深刻化している。全日空は、従業員の年収を三割カット、職員の他企業へ出向も決定した。解雇を回避したことは評価されるが、これが中小企業や非正規社員だとしたらどうなるのか。特に住み込み寮の場合、仕事と家の同時喪失も起こり得る。先日の抱樸クラウドファンディングは、これに備え全国十都市で「支援付き住宅」確保を進めている。 住居喪失はなぜ問題か。それは言うまでもなく「生命的危機」状態だからである。さらに「社会的危機」を招く。現在の社会的手続きは、住民基本台帳、つまり「現住所」で行われる。現在、緊急対策として打ち出されている「給付金」や「貸付金」も現住所で申請する。現住所がなければ「マスク」一つ届かない。
 日本国憲法第25条は、生存権の保障に関する条文である。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。住居を失うということは、「健康」でも「文化的」でもない状態を意味する。さらに「文化的」は、単に水道や電気が整備されていることのみならず、社会保障等が活用できる状態を指す、と思う。しかし、住居喪失は、それらの手続きから排除されることを意味する。住居喪失は、「生命的、社会的危機」状態であり、「生存権」が保障さていないことを意味する。国がこれを放置することは、違憲状態だと言える。国は、生活保護や生活困窮者自立支援などをまじめに実施する義務があると憲法は定めている、と思う。(「と思う」と言うのは、朝日訴訟など含め憲法の議論はともかく、現場で憲法を読んでの感想に過ぎないからだ)
 憲法25条はあ、コロナ禍において最も大切な条文だ。一方現憲法の文言だけでは物足りないのも事実だ。74年前、この憲法は公布された。戦後の混乱期であり、生き残った人々は家族や地域で力を合わせ頑張っていたと思う。その後、企業と家族が中心となって「日本型社会保障体制」が構築される。だが、80年代後半、世界は新自由主義へ向かい、雇用の不安定化と共に家族も脆弱化した。にも拘わらず「身内の責任で」という空気は今でも支配的で、それは8050問題などに典型的現れている。
だが、すでに家族は限界を迎えている。憲法公布時に存在していた「家族や地域のつながり」は、失われつつ、その現状において憲法25条もまた新たになる時を迎えている、と思う。「すべて国民は、健康で文化的で、つながりのある最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権は、健康と文化と「つながり」によって成立する概念なのだ。 「支援付き住宅」が広がりつつある。就労支援のみならず、「従来家族が果たしてきた役割」が付加された住宅を意味する。抱樸ではそれを「家族機能の社会化」と呼ぶ。国が個々の「つながり」に口を出すのは心配だが、しかし、生存権に「つながり」を加えて議論することが重要だ、と思う。
「人はパンだけで生きるものではなく、神のことばで生きる」とイエスは言う。「健康で文化的な生活」は「パン」を指す。では「ことば」は。 それは「関係」であり「つながり」だ。そもそも生存権とは、「パン」と「ことば」によって成立している、と思う。

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