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2017/10/15

国民国家と民衆

評論家の渡辺京二は「近代」を問う。渡辺にとって「近代」とは「国民国家の成立」を指す。そして「国民国家」が成立したことで「自立的民衆世界」は解体されたと指摘する。なんだか少々難しい。渡辺自身のことばを引用すると「近代とは何でありましょうか。この民衆世界の国家と関わりない自立性を撃滅したのが近代だったのであります。(中略)(近代の成立は、)実体的にいえば国民国家の創出であります。ヨーロッパにおいては、これがフランス革命でありまして、その意義はブルジョワ支配の確立なんてところにあるのではなくて、国民国家の創出にこそ、その第一の意義が認められねばならない。フランス革命が創出したのは、ナショナル・ガード、つまり国民兵であります。お国のことなんて知らねえよ、と言っていた民衆が、よろこんでお国のために死ぬことになった。これは画期的なことでありまして、フランス革命のキー・ポイントは民衆世界の自立性を解体するところにあったのです」。やっぱりなんだか難しいがこんなことを言いたいいのではと、以下述べる。
近代以前の民衆は「お国」とは関係なく生きていた。「おらが村」での暮らしが全てであり、「国家」や「国民」ということは意識していなかった。例えば、近代以前、イギリスとフランスが戦争していた。ただ、それは王様同士の戦争であって「王の兵隊」が闘っていたに過ぎない。民衆には関係のない出来事だった故に、戦時下でもイギリス人がフランス国内を自由に旅行していたという。戦争が「全国民対全国民」という「国民兵(ナショナル・ガード)」の戦いになったのは、ナポレオン戦争以後というのはそういうこと。近代とは民衆を国家と一体化させた時代だと言える。「国の一大事だから全国民が総動員で戦う」というのは近代の発想。七〇年前「一億総火の玉」や昨今の「一億総活躍」も最たる近代的言辞である。渡辺はこれを「近代の呪い」とさえ言う。近代とは「国家」にすべての人が飲み込まれていく「呪い」がかけられている時代。私たちには、このことがどれだけ認識できているだろうか。
選挙は後半戦に入る。候補者は、憲法、消費税、社会保障など「この国のかたち」を語る。有権者も選挙ともなれば「国」を考える。この間、乱暴な権力者は「主権者たる国民」を無視し法案を通してきた。安保法制然り。「国民主権」と今一度声高に叫ばねばならない。
だが一方で「国民主権」もまた、国家を前提とした概念。今回の選挙結果がどうであれ、渡辺の指摘する「民衆世界の自立性」の存在を心に留めたい。民衆は自立していたのだ。お上とは関係なく生きてきたのだ。確かに自給自立に近い生活をしていた時代と、これだけ国家システム(例えば社会保障)の中でしか生きられない今日と比べることはできないが、「自立的民衆世界」の存在を意識せず一足飛びに「国民国家の一員です」とやってしまうと危険極まりない。次の総理大臣が「総動員だ」「総力戦だ」と言い出しても「あっしにゃ関わり合いのねえことでござんす」と言える。それが「民衆の自立性」に他ならない。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ人への手紙五章)アアメン。

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